幕末ののろし台  <時代>江戸時代  <地域>知多
のろし台跡の全景 のろし台

<所在地> 南知多町大井(名鉄河和線河和駅下車 知多バス丸豊工業前駅徒歩30分)
<概要>
 1853年(嘉永6),ペリー提督の率いる米国艦隊の来航により,我が国の開国・攘夷(じょうい)論争はますます激しさを増した。幕府は,諸藩に異国船対策のために沿岸警備強化を命じた。これを受けて,尾張藩は知多半島の見張強化と,有事の際の連絡手段としてのろし台を設置した。のろし台は南知多町大井(おおい),美浜町布土(ふっと),武豊町,半田市,東浦町,名古屋市緑区大高に設置され,粘土で作られたかまど状で,壁の一部にたき口が開けられていた。この中で枯れ枝や青葉などを燃やし,のろしを上げたのである。南知多町大井には,東海地方で唯一ののろし台が現存している。その後,内海(うつみ)海岸の高台には大砲も設置され,のろしと大砲,それに船30隻ほどを動員しての大規模な演習も行われたが,のろし台が実際に役立ったことはなく,明治時代を迎えることになる。
<学習のポイント>
 幕府が外国船の警備に海岸警備を強化するなどの対外政策の具体例として地域に残る当時の遺物を取り上げたい。
<見学のポイント>
 南知多町大井には当時ののろし台が現存している。のろし台は風化を避けるため保護カバーでおおわれている。
<参考資料>
「知多半島の歴史」
<問い合わせ先・ホームページ>
南知多町郷土資料館(0569)62ー2218

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