安養院(あんよういん) 〈時代〉平安時代 〈地域〉知多
安養院 大御堂寺(おおみどうじ)にある織田信孝の墓

〈所在地〉知多郡美浜町野間東畠90−1(名鉄知多新線野間駅下車,徒歩10分)

〈概要〉
 安養院は,大御堂寺の一院として,1190年(建久元)に建てられた。
 織田信長の三男,織田三七郎信孝は,羽柴筑前守秀吉(はしばちくぜんのかみひでよし),後の豊臣秀吉との権力争いに敗れ,岐阜城から野間に逃れてきたが,ついに逃げられないことを悟り,当院の一室で切腹して果てた。時は,1583年(天正11)5月7日のことであった。そのとき,信孝は,鎧(よろい)の下の母衣(ほろ・鎧の背につけて流れ矢を防いだり,存在を示す標識にしたりした幅の広い布)に辞世の歌「むかしより 主をうつみの 野間なれば むくいをまてや はしば筑前」を書き付けた。そして,腹をかき切って腸をつかみ出すと,床の間にかかっていた墨梅の掛け軸に投げつけたといわれている。その血のあとは,今なお掛け軸に残っている。さらに,掛け軸に描かれた梅の花は,四季折々に色を変えると言い伝えられている。
 信孝の墓は,大御堂寺にある源義朝の墓の南にある。実際に自害した場所は,当時南ノ坊といわれていたこの安養院である。ちなみに,血染めの掛け軸や自刃の短刀,自刃の間は非公開である。

〈学習のポイント〉
 織田信長が本能寺で明智光秀に倒された後,織田信長の一族はどうなったか,詳しく調べてみよう。

〈見学のポイント〉
 安養院のすぐ隣には,大御堂寺がある。また,周辺には,源義朝を法山寺の湯殿で襲った長田忠致・景致(おさだただむね・かげむね)父子の屋敷跡,二人をはりつけにしたといわれるはりつけの松の跡,源義朝が襲われた湯殿の跡が残っている。ぜひそちらにも足を伸ばしてみたい。

〈参考資料〉
 
「美浜町誌」

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