大野鍛冶(おおのかじ) 〈時代〉江戸時代 〈地域〉知多
鍛冶道具(知多市歴史民俗博物館展示) 焼き入れの様子

〈関係地〉常滑市・知多市
〈概要〉
 
常滑市と知多市にまたがる大野谷といわれる地域は,近代にいたるまで鍛冶を営むものが多数存在し,知多地方をはじめ,遠く美濃や三河まで出稼ぎに出かけていた。もともと武具鍛冶がそのはじまりであり,歴史は12,3世紀にまでさかのぼる。近江国辻村より数名の鍛冶職人が大野谷へ移り住み,ここで鍛冶を始めたと伝えられる。
 江戸時代に入り,平和な時代が続くと,主に農具を製作・修理する農鍛冶が増加してきた。1730年の戌正月相改メ候「農鍛冶船鍛冶連判仕掟」左之通には,当時の鍛冶仲間が185人いたことが記されている。鍛冶仲間が増加してくると,「居鍛冶」と「定鍛冶」と呼ばれる地元に販路をもつ者の他に,他村・他国まで出向いて鍛冶を行う「出鍛冶」というものも現れた。その出稼ぎ先は知多半島をはじめ,三河・尾張・美濃の各地に広がっている。特に,山家とよばれる三河山間部を中心に,大野鍛冶が出かけ,鍬や備中の調整・修理にあたった。出稼ぎの期間は,一般的には年2回,春の彼岸から田植えまでの3ヶ月ほどと,秋の彼岸から取り入れまでの50日ぐらいであった。
 江戸時代以降,明治・大正・昭和初期へと出稼ぎという形で大野鍛冶の伝統が受け継がれてきた。しかし,終戦後,農業も機械化が進み,鍬などの農具はあまり使われなくなり,鍛冶出稼ぎの姿も消えていった。


〈学習のポイント〉
 地域における中世から発展してきた産業の一例として紹介したい。

〈参考資料〉
 「知多市誌」

〈問い合わせ先・ホームページ〉
 知多市歴史民俗博物館 0562-33-1571 http://www.city.chita.aichi.jp/kyouiku/syougai/hyu-tory/index.html


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