雉本 朗造(きじもとときぞう)−鳴海争議を指揮した京都帝国大学教授−  <時代>大正時代  <地域>名古屋
雉本朗造像(浦里公園内)

<関係地>浦里公園 名古屋市緑区浦里1(名鉄名古屋本線本星崎駅下車徒歩15分)
<業績>
雉本朗造は,ドイツで民事訴訟法を学んだ後に日本の民事訴訟法を体系化し,「大正デモクラシ−の理論的旗手」と称され、京都帝国大学法学部教授であった人物である。
1917年(大正6)は,長雨にたたられ稲の出来が予想外に悪かった。そこで鳴海の小作人は,凶作を理由に小作料の引き下げを要求し,「鳴海争議」がぼっ発する。雉本家にかつて出入りしていた小作人が,大学教授で高い法律知識をもつ彼に争議への協力を願い出た。こうして1920年(大正9)に仲裁に入った彼に対し,地主側がまったく応じようとしなかったため,彼は農民の側に立って裁判の参加に踏み切る。鳴海争議は長引き,1922年(大正11)には国会でも問題となり,全国の注目を集める中で,翌年に和解が成立し,小作料が引き下げられた。
しかし,和解の場に彼の姿はなかった。前年に静養先からの帰途,船上から姿を消し,遺体で発見されたのである。自殺・事故・他殺…真相は,現在でもなぞである。

<年譜>
1876年(明治9) 愛知郡鳴海町笠寺鳴尾に生まれる
1909年(明治42) 33歳の若さで法学博士となる
1920年(大正9) 鳴海小作争議にかかわる
1922年(大正11) 46歳で没
1923年(大正12) 鳴海小作争議和解

<学習のポイント>
雉本朗造が関係した鳴海争議を通して,寄生地主と小作人の関係を学習しよう。鳴海争議は6年間にわたる争議で,小作人650人・地主156人がかかわった,全国の注目を集めた争議であったことを理解しよう。
また,「大正デモクラシー」と呼ばれる民主主義的思潮と,その運動が時代背景にあったことを理解し,小作争議以外の動きを調べてみよう。

<見学のポイント>
現在銅像は,ゆかりある人々が「雉本朗造博士銅像後援会」を結成し,保存に尽力している。

<参考資料>
「名古屋いまむかし」

<問い合わせ先>
名古屋市緑区役所 052-621-2111 

 愛知エースネットへ      トップへ