愛西市域のアメリカの移民(あいさいしいきのあめりかのいみん) <時代>明治時代 <地域>尾張 

<関係地>愛西市

<概要>
 明治時代の愛西市は,濃尾地震や鵜多須切れの洪水等の自然災害や繊維産業の不振による経済的な不況にあえいでいた。 その中で,1881年(明治14)に愛西市二子町出身の山田芳男氏が,出漁中に難破したが,アメリカ船に助けられてカリフォルニアに渡った。 山田氏は農園で働いた後,帰国し,親類の縁者をつのり,数人と再び渡米した。 彼らが,数年後に大金を故郷に送ったことから,愛西市に渡米ブームが起きた。(同町内で1891年〜1924年に640人が渡米)
 移民の多くはカリフォルニア州の農場での労働に従事した。 低賃金の労働であったが,アメリカで数年働けば,日本で土地が2〜3町歩(約1ha)買えたので,日露戦争のころまで移民は続いた。 勤勉な日本人は,大切な労働力として必要とされ,カリフォルニアでは日本人のコミュニティーが出来上がった。 1912年(明治45),北米愛知県人会が結成され,日本人社会は強固になっていくが,1924年(大正13)には排日移民法が制定され,日本人のアメリカ入国が禁止された。太平洋戦争に入ると,日系人は強制収容所に収容され,全財産を米国政府に没収された。
 終戦後,日系人は解放されたが,没収された財産は返還されず,日本人コミュニティーもばらばらな状態となった。
 現在,サクラメント,サンフランシスコなどに日本人が居住している。 2003年(平成15)より,佐織町から中学生等をサクラメント市他へ派遣する国際交流事業が始まり,合併後の愛西市でもこの事業を継続実施している。 

<学習のポイント>
 アメリカに移民した人々が,異国の地でどのような苦労を重ねて日本人コミュニティーをつくり,アメリカ経済を脅かす存在になっていったかを調べよう。

<参考資料>
 「わたしたちのさおり」「海部・津島のアメリカ移民」

<問い合わせ先>
 愛西市教育委員会社会教育課 (0567) 37-0231

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