河田悦次郎(かわだえつじろう)  <時代>明治時代  <地域>尾張
元 河田蚕種製造所(現存しない)

<関係地> 春日井市上田楽(かみたらが)町(東名春日井ICより車で10分)
<業績>
 河田悦次郎は,1864年(元治元),田楽村(たらがむら)北条(きたじょう)(現在の春日井市上田楽町)に漢方外科の医者河田俊蔵(墓碑には俊造とある)の長男として生まれた。
 家業は漢方医院であったが,養蚕家を目指すことを決心し,技術を習得するとともに,養蚕業の発展のための研究を進めた。そして,悦次郎は「自然育」ではなく,室温を炭火などで加熱して飼育する方法「温度育(おんどいく)養蚕法」による蚕の飼育を成功させ,養蚕農家を急増させた。 
<年譜>
1877年(明治10) 県立養蚕伝習所において進んだ技術の習得をする
1883年(明治16) 本格的に養蚕業を始める
1884年(明治17) 河田蚕種(さんしゅ)製造法として発足
1886年(明治19) 框(はこ)製蚕座(さんざ)による蚕種法を考案
1887年(明治20) 温度育による養蚕法を考案
1891年(明治24) 河田養蚕伝習所を開設
1898年(明治31) 蚕種「河又(かわまた)」を発表
1918年(大正7) 蚕種の袋採(たいさい)法を発表
1931年(昭和6) 66歳で没

<学習のポイント>
 江戸時代,養蚕業の先進地は,福島・群馬・埼玉・長野の各県と兵庫県北部地方であった。一方,愛知県は全国有数の綿作りの土地であったが,明治になって大量に綿花が輸入されたため,大きな打撃を受けた。県は,困っていた綿作り農家を救うために,将来性のある養蚕を大いに勧めるかたわら,1876年(明治9)に県立養蚕伝習所を設立したり,群馬県富岡の国立製糸工場へ研修生を送ったりした。
 この地域の養蚕業がどのように発展したのかについて調べてみよう。
<参考資料>
「春日井市史」・「春日井の人物」・「春日井の歴史物語」
<問い合わせ先・ホームページ>
 春日井市文化財課   http://www.city.kasugai.lg.jp/bunka/bunkazai/shinai/index.html

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