飯野八兵衛事件(いいのはちべいじけん)  <時代>江戸時代  <地域>西三河
飯野八兵衛供養塔 四郷村宝暦義民之碑

<所在地> 雲龍寺  豊田市四郷町山畑78 (名鉄三河線豊田市駅下車,とよたおいでんバス小原、藤岡・豊田線《西中山経由》乗り換え,四郷天道下車約2分)
<概要>
 山本八兵衛(1726-1753)は,飯野村(現在の豊田市藤岡飯野町)の庄屋に生まれたので飯野八兵衛の名がある。
 挙母藩では,1749年(寛延2)に内藤政苗(ないとうまさみつ)が新しい藩主として移ってきた。新たに城を築く費用や藩の財政を立て直すために,厳重な検地とともに年貢の増収が行われた。また,築城のための人夫も各村々からかり出されることになった。
 こうした重税に苦しんだ農民を救うために,飯野八兵衛は何度も藩に訴えて出た。しかし,幼少であった藩主は江戸にいて,八兵衛らの願いは届かなかった。
 そこで,飯野八兵衛らは年貢の減免を江戸にいる藩主に直接訴え出る(越訴:おっそ)ことにした。1752年(宝暦2),飯野八兵衛を始め1,241名がむしろ旗,竹やりをおしたてて立ち上がった。 農民の大半は岡崎藩の説得で村へ帰ったが,残る305人は江戸の藩屋敷まで行き,生活の苦しさ,年貢の引き下げ,藩の悪政を訴えた。その結果,訴えの一部は認められたが,飯野八兵衛ら6名は打ち首,その他の者も追放,田畑取り上げ,罰金などの厳しい処分がなされた。
 その後,飯野八兵衛らの業績をたたえ,立派な石碑が建てられ,各村ごとに供養の祭礼が行われている。
<学習のポイント>
 江戸時代中期になると,領主や代官に反抗する百姓一揆が年とともに増加した。初期の百姓一揆のようす(越訴)を飯野八兵衛事件を例に学習するとともに,地域の人々が今なおたたえ供養していることを知る。 
<見学のポイント>
 現在も供養のお祭り(おためし)が,豊田市四郷町では5月14日,舞木町では4月22日,藤岡飯野町では4月1日に行われている。飯野八兵衛の碑は,藤岡飯野町にある。
<参考資料>
 「飯野八兵衛」(長居紀章著) 「豊田市史」「猿投町誌」
<問い合わせ先>
 豊田市教育委員会文化財保護課 0565−32−6561

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