猿投神社の富くじ(さなげじんじゃのとみくじ) <始まり>江戸時代 <地域>西三河
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富くじの高札 |
猿投神社 |
<所在地> 猿投神社 豊田市猿投町 (名鉄三河線豊田市駅下車,とよたおいでんバス藤岡・豊田線《加納経由》乗り換え,猿投神社前下車徒歩2分)
<概要>
宝くじの原型といえる富くじの起源ははっきりしない。また,江戸時代の記録では「富くじ」と書かれたものはなく,「御免富」「富突」「富」などとある。江戸時代の文政年間には,3日に1度,どこかで富くじが興行されていた。ただし,興行できたのは寺社に限られ,一般には禁止されていた。これは,幕府や藩が寺社に経済的援助ができなくなったための措置である。それでも人々の射倖心(しゃこうしん)をあおることから,天保の改革で一切禁止となり,明治以降もこれが引き継がれた。復活したのは,終戦間近の1945年(昭和20)に発売された勝札で,終戦後,宝くじとなった。
猿投神社の富くじは,1767年(明和4)の山津波で破損した社殿を修復する資金を得るために行ったと考えられている。安永年代(1770年頃)に,駿府の再福寺,京都の錦天神歓喜光寺と,天保年代 (1835年頃)に湯島天神で行われた。しかし,思うような収益が上がらず,興行の場所替えを願い出て,1778年(安永7)になり,京都での興行が許され,社の修復ができた。写真の高札は,富くじの興行を知らせたものである。本来は屋根がついているものだが無くなっている。「御免」の文字は幕府からの許可を表し,裏面には興行年月日が記されている。
<学習のポイント>
現在の宝くじがどのようにして生まれ,どのように変化していったのか学習する。
<見学のポイント>
富くじの学習とともに,猿投神社も見学して学習したい。
<参考資料>
「豊田の文化財」
<問い合わせ先・ホームページ>
豊田市郷土資料館 0565−32−6561 http://www.toyota-rekihaku.com
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