鳥山牛之助精元(とりやまうしのすけきよもと)−江戸時代の名代官−  <時代>江戸時代  <地域>西三河
木造鳥山牛之助座像(浄久寺) 明治17年の地籍図に残る曲尺手堤

<関係地> 浄久寺 豊田市喜多町3−1 (名鉄三河線豊田市駅下車,徒歩5分)
<業績>
 江戸中期の三河代官。鳥山家は4代にわたり三河代官を勤めた家柄である。3代の精元は,三州小牧邑(幡豆郡吉良町)に生まれ,1666年(寛文6),父を継いで三河代官となった。
 1673年(延宝元),矢作川の治水のため,挙母神社の東側の曲尺手(かねのて)に堤防を築き,遊水池を作って,堤防決壊と浄化入水を防いだ。領民は,この堤を「精元堤」と呼び,徳をたたえた。
 また,精元は堤防に桑樹を植えさせ,養蚕を奨励し,農村経済の一端を支え,現在まで続いた挙母養蚕の祖とあがめられた。
 この他,上・下庄司ケ池の治水を行い,農地干ばつの不安を取り除き,道幅三間半(6.3m)の街道を作り,これに沿って挙母の街並みを整備した,水害から神社を守るための移転用地を下げ渡し除地(検地から除き無課税とすること)とするなど,当時の人々の農業生産や日常をめぐる諸問題に積極的にかかわった。  
<年譜>
1617年(元和 3) 三州東条(横須賀町)で出生
1666年(寛文 6) 三河代官となる
1666年(寛文 6) 勝手神社を水害から守るため移転させる
1669年(寛文 9) 毘森神社を水害から守るため移転させる
1673年(延宝 1) 矢作川の洪水を防ぐため堤防を曲尺手の形にして,出水時の遊水池をつくる
1707年(宝永 4) 91歳で没

<学習のポイント>
 矢作川の水位と豊田市街地の高さをくらべてみよう。
 久澄橋北付近にわずかながら残る曲尺手堤の面影をしのんでみよう。
<参考資料>
「豊田市の文化財」豊田市教育委員会
「豊田市史 人物編」豊田市
<問い合わせ先>
豊田市郷土資料館  0565−32−6561

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