内藤 魯一(ないとうろいち)−自由民権運動の闘士−  <時代>明治時代  <地域>西三河
内藤魯一の銅像(知立市猿渡公民館) 板垣退助遭難の図

<関係地> 知立市猿渡公民館 知立市上重原町  (名鉄名古屋本線知立駅下車徒歩20分)
<業績>
  内藤魯一は,江戸末期から明治という大きな変革の時代に生きた人である。内藤家は代々福島の譜代大名板倉氏に仕え,320石を受ける家老の家柄であった。三河に転封になって後23歳の若さで執政大参事となり,抜本的な行政改革を行った。廃藩置県を予想して,近隣の山林原野を開墾地として公平に分配したり,茶や桑の栽培を奨励したりした。
 その後1879年(明治12)に,魯一らが中心になって知立に「三河交親社(みかわこうしんしゃ)」が結成された。「大日本憲法草案」を地域新聞に発表したが,その内容は民権運動家の魯一の政治姿勢をよく表していた。
 その後自由党を設立し,自由党総裁の板垣退助(いたがきたいすけ)が遊説したときは先導役を務めた。板垣が暴漢に襲われたとき,その危急を救う武勇を演じたのも魯一であった。その後,県会議員を十年以上務め,1905年(明治38)には念願の衆議院議員となった。
<年譜>
1846年(弘化 3) 
1866年(慶応 4) 
1867年(明治元) 
1868年(明治 2) 
1879年(明治12) 
1880年(明治13) 
1882年(明治15) 
1890年(明治23) 
1905年(明治38) 
1911年(明治44) 
現在の福島市に生まれる。幼名は詮太郎
物頭となって福島城の警備にあたる
福島藩が岩代国大沼郡と三州重原の2か所にふり分けられる
執政大参事となり,藩の行政改革を進める
魯一らが中心になって知立に「三河交親社」が結成される
自由党結成の盟約を結び,愛知の政治結社を一本化しようとする
自由党総裁板垣退助と共に東海道遊説に出る。岐阜での演説の時,板垣が暴漢に襲われたのを救う
第1回衆議院議員総選挙に出馬するが落選する
衆議院選挙で初当選 伊藤博文を中心とする立憲政友会に属した
64歳で没

<学習のポイント>
  魯一の政治的な思想はどのように変化していっただろうか。
<参考資料>
  「三河人物散歩」 愛知県教育文化振興会
<問い合わせ先>
  知立市役所歴史民俗資料館 0566−83−1133

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