豊川海軍工廠跡 (とよかわかいぐんこうしょうあと)  <時代>昭和時代  <地域>東三河
米軍機の機銃掃射の跡が残る倉庫

<所在地> 豊川市穂の原(名鉄豊川線諏訪駅下車徒歩20分)

<概要>  
  豊川海軍工廠は日本海軍の機銃弾丸(きじゅうだんがん)などを製造していた工場で,棟数700,最盛時の工員は5万6000人を数えた。戦争末期の兵力不足による学徒動員や女子挺身隊(じょしていしんたい)の動員により多くの若い人たちが働いていた。1945年(昭和20)8月7日,マリアナ諸島のサイパン島イスリー基地を発進したB29爆撃機124機が,熊野灘から志摩半島をかすめ豊川市上空に達した。市域一帯に空襲警報が発せられるが,B29爆撃機10機編成の12波に及ぶ爆撃が26分間続き250kg爆弾3,256発が投下された。この日の爆撃による死者は工廠外において犠牲になった八南国民学校の1年生をはじめ,一般の人々を含めると3,000人に近く,負傷者は1万人以上であった。そして,わずか1週間後の8月15日終戦を迎えることとなる。 
<学習のポイント>
  太平洋戦争末期の危機的な状況と,爆撃による多くの犠牲者について学ぶことで戦争の恐ろしさを知り,平和のありがたさについて考えさせたい。 
<見学のポイント>
  かつて海軍工廠のあった所は,豊川市役所の北側の一帯で,現在は日本車輌の工場や陸上自衛隊の駐屯地,名古屋大学の太陽地球環境研究所になっている。太陽地球環境研究所の敷地内には,今でも250kg爆弾が落ちたときにできた大きな穴や,米軍機に機銃掃射(きじゅうそうしゃ)を受けた倉庫などが残っている。

<参考資料>
  「豊川市史」・「図説東三河の歴史」・「愛知県の歴史散歩」・「豊川の歴史散歩」
<問い合わせ先>
  名古屋大学太陽地球環境研究所  0533-86-3154

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