岩瀬 忠震 (いわせただなり) ―幕末の外交官―
<時代>
江戸時代
<地域>
東三河
岩瀬忠震像
顕彰碑(勝楽寺内)
<関係地>
岩瀬忠震顕彰の碑 (新城市川路勝楽寺)JR飯田線三河東郷駅下車徒歩5分
<業績>
岩瀬忠震は現在の新城市東郷地区を拠点とした1400石の旗本,設楽貞丈の3男として生まれた。母は大学頭をつとめる林家の娘である。23才の時,同じ三河の旗本書院番であった岩瀬市兵衛忠正の養嗣子となり,その長女と結婚した。その後、江戸の昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)で学び幕府の役人採用の試験に合格し,幕吏となる。1853年(嘉永8)ペリーが黒船で来航すると老中阿部正弘は彼を目付(めつけ)に登用し,対外交渉に当たらせた。特にアメリカ領事ハリスと交渉して日米修好通商条約に調印し,その後も外国奉行として,オランダやフランスなどと安政の五カ国条約をすべての調印者となった。しかし,13代将軍家定の継嗣問題で大老井伊直弼(いいなおすけ)の怒りを買い,安政の大獄で免職させられた。その後,江戸向島に幽居したが,1861年(文久元)44歳で病死した。
<年譜>
1818年
(文政元)
設楽氏の三男として新城に生まれる
1840年
(天保11)
岩瀬市兵衛忠正の養嗣子となり長女と結婚
1843年
(天保14)
26才のとき幕吏登用試験に合格
1858年
(安政5)
ハリスと交渉し,全権の一人として日米修好通商条約調印
1859年
(安政6)
前年から始まった安政の大獄により免職となる
1861年
(文久元)
44歳で病没
<学習のポイント>
幕末,ペリー来航後の混乱した状況の中で,外交担当者として活躍し,開国条約といわれる安政の五カ国条約の調印に深く関わった岩瀬忠震の生涯について,理解を深めよう。また,鎖国から開国へ大転換の時代をリードした幕末外交官の仕事と,その後の維新を招いた人々との違いや共通点を考えてみよう。
<見学のポイント>
勝楽寺には,岩瀬忠震の顕彰の碑がある。また設楽原歴史資料館には彼の書画等が展示され,その生涯が詳しくパネルで紹介してあるので見学するとよい。
<参考資料>
「新城市誌」「図説東三河の歴史」「岩瀬忠震」(設楽原歴史資料館発行)
<問い合わせ先>
設楽原歴史資料館 0536-22-0673
http://www.city.shinshiro.lg.jp/index.cfm/1,3106,118,662,html
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