曽田 梅太郎(そだうめたろう) ―数学教育の功労者― <時代>
昭和時代 <地域>東三河
曽田 梅太郎
梅太郎の生家
<関係地>
生家(豊川市野口町ツイジ51曽田和之氏宅) 名鉄豊川線八幡駅下車20分
<業績>
梅太郎は,曽田家の七人兄弟の末っ子として生まれた。両親が農作業で忙しく子育てに専念できないこともあって,学齢に達しない内から小学校に通う兄たちと共に登校し,授業を受けたりした。そうしたことがきっかけとなり,学問にいそしむようになった。愛知第二師範学校に学ぶころころから,数学の実力を伸ばした。同校卒業後,いったんは母校の国府高等小学校の教師となるが,青雲の志を捨てきれず,広島高等師範学校へ進学。同校教官舎監を経て,教授に着任。この間,教科書等の著作活動にも精励した。その後,熱望されて愛知第二師範学校校長となるなど,県下の教育振興に力を尽くした。
<年譜>
1886年(明治19) 宝飯郡穂野原村(現豊川市)に生まれる
1912年(明治45) 広島高等師範学校卒
1916年(大正 5) 教科書著作に着手
1930年(昭和 5) 広島高等師範学校教授
1932年(昭和 7) 雑誌「学校数学」創刊
1949年(昭和24) 愛知学芸大学教授
1953年(昭和28) 曽田教習具製作所設立
1973年(昭和48) 死去
<学習のポイント>
明治以降の教育史を振り返り,教育の振興に尽くした人物について調べてみよう。
<参考資料>
「三河人物散歩」
<問い合わせ先>
桜ヶ丘ミュージアム 0533-85-3775
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