鵜飼船の碑(うかいぶねのひ) <時代>江戸時代 <地域>東三河
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(鵜飼船の碑) |
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<所在地>新城市乗本(JR飯田線本長篠駅下車徒歩5分)
<概要>
豊川は江戸時代には,奥三河・信州と吉田湊(現在の豊橋)を結ぶ河川交通の中心として利用された。新城より上流では乗本(のりもと)の菅沼定正(すがぬまさだまさ)が1644年(正保2)廻船業を始めた。定正は宇連川(うれがわ)と黄柳川(つげがわ)の合流点に羽根河岸(はねがし)と呼ばれる船着き場をつくり,遠州方面や別所街道(べっしょかいどう)を通って運ばれてくる荷物や年貢米,御用材木などを運搬した。この廻船業に使われた船を「鵜飼船」という。鵜飼船は定正が鵜飼いに使う船の船大工を招いて特別に造らせたもので,従来の川船では入って行けない谷川でも使用できるように工夫されていた。全長は14m,幅が1.5mと細長く,船首と船尾の形がほぼ同じで狭い川でも船を回転させることなく進んだり退いたりが可能だった。
<学習のポイント>
江戸時代の河川交通は流通の中心であり,豊川を利用してどんなものが運ばれたか調べてみるとよい。
<見学のポイント>
乗本の黄柳川にかかる黄柳橋のたもとに,廻船業の碑があり。「昔や乗本その名の如く ,羽根の河岸にぎわいて,それにぎわいて,吉田通いの船が着く,船が着く」と乗本音頭が刻まれている。
<参考資料>
「鳳来町誌」「三河の街道と宿場」
<問い合わせ先・ホームページ>
新城市教育委員会 http://www.tcp-ip.or.jp/~shinky/
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