田沼領牓示石 (たぬまりょうぼうじせき)  <時代>江戸時代  <地域>東三河
田沼稲荷(高膳寺(こうぜんじ)内) 牓示石(弘法山公園入口)

<所在地>豊川市国府町中道(高膳寺) (名鉄名古屋本線国府駅下車,徒歩5分)  
<概要>   
  田沼領牓示石は,江戸時代中期の政治家として知られる田沼意次(たぬまおきつぐ)が,国府(こう)村を領有した時に領界を示すために立てたものである。田沼意次は,18世紀後半,10代将軍家治(いえはる)の時代に老中として活躍した人物として知られる。遠江国(とおとうみのくに)(静岡県)の相良(さがら)藩主であった意次は老中となってから失脚するまでの15年間,三河国の国府・森・為当(ためとう)・御馬(おんま)村(豊川市)なども所領とし村政を行った。牓示石は二箇所にあり,一つが高膳寺本堂裏の「従是南相良領(これよりみなみさがらりょう)」,もう一つが弘法山公園入口の「従是北相良領(これよりきたさがらりょう)」である。自分の領地を明示し,領内を通っていた東海道を通行する人々に威厳を示した。高膳寺の牓示石は高さ1.4mと大きなものだが,弘法山公園入口のものは高さ50cmほどである。田沼意次は,商業資本の積極的利用の結果,賄賂(わいろ)政治を招いたとして非難されるが,村政においては,天明の飢饉(てんめいのききん)の際,年貢の軽減や困窮者の救済など善政を行った。
  意次の失脚後所領は没収され,置かれていた陣屋も撤去されたが,高膳寺には彼が下野国(しもつけのくに)(栃木県)田沼から勧請(かんじょう)した「田沼稲荷大明神」(たぬまいなりだいみょうじん)が残る。
  国府村・森村はその後,1803年(享和3)から1869年(明治2)の版籍奉還(はんせきほうかん)まで,陸奥国(むつのくに)磐城平(いわきだいら)藩安藤家の領地となった。幕末のペリー来航や日米和親条約での開国の際の老中安藤信正(あんどうのぶまさ)は,この磐城平藩の藩主である。
<学習のポイント>
 
田沼領牓示石を通して,江戸時代の政治家である田沼意次や安藤信正などの政治やその時代を,身近なものとしてとらえよう。また,開国から幕末にかけての政治への関心を高めよう。
<見学のポイント>
 
高膳寺の牓示石は,もとは国府と御油(ごゆ)(豊川市)との境にあったものを移したものである。また,高膳寺には天保(てんぽう)のころから明治初年までおかれていた寺子屋の盛況ぶりを偲(しの)ばせる筆塚がある。この地のかつてのにぎわいを感じたい。弘法山公園は,高膳寺から南へ約300mのところにある。
<参考資料>
 
「豊川市史」「豊川の歴史散歩」「愛知県の歴史散歩」「図説東三河の歴史」
<問い合わせ先>
  豊川市教育委員会生涯学習課  0533-88-8035

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