福谷 啓吉(ふくたにけいきち)  万延元年遣米使節に参加  <時代>江戸時代 <地域> 東三河
福谷啓吉 福谷敬吉の墓
福谷啓吉 福谷敬吉の墓 正琳寺

<関係地> 豊橋市花園町正琳寺 福谷敬吉墓 (JR東海道線豊橋駅下車徒歩20分)
<業績>
  豊橋市萱(かや)町の秤(はかり)屋福谷喜久蔵の子として生まれた啓吉は, 26才の時,吉田(今の豊橋)を去り,京都・長崎で学んだのち,長崎遊学中に佐賀藩士となった。
 佐賀藩は1852年(嘉永5)精錬方(せいれんかた)を設け,藩士佐野常民(さのつねたみ・元老院議長や大蔵卿などを歴任し, 日本赤十字社を創立した)や啓吉らを登用し,化学技術の研究などに従事させた。啓吉は,長崎海軍伝習所に佐賀藩伝習生として参加し,オランダ海軍士官から航海術を学んだ。
 幕府は,1860年(万延元)に日米修好通商条約の批准書交換のため使節を派遣したが,この際啓吉はポーハタン号で太平洋を渡り,アメリカで造船や化学工業の知識を学び,明治維新後は工部省や農商務省などで活躍した。
<年譜>
1819年(文政 2) 吉田(豊橋市萱町 )に生まれる
1835年(弘化元) 故郷吉田を去る
京都・長崎で学び、のち、佐賀藩に召し抱えられ、佐賀藩士となる
1855年(安政 2) 長崎海軍伝習所に参加する
1860年(万延元) 日米修好通商条約の批准書交換
吉田にいる病床の父喜久蔵を見舞う 
1883年(明治16) 豊橋に引退
1889年(明治22) 70才で没

<学習のポイント>
  遣米使節団の正使は時の外国奉行新見豊前守正興(しんみぶぜんのかみまさおき)、副使は村垣淡路守範正(むらがきあわじのかみのりまさ)であった。 福谷啓吉はその副使村垣の従者としてアメリカに渡るが、村垣が綴った日記を読んでみよう。

<見学のポイント>
  豊橋市花園町正琳寺(関係資料はない)に自然石を横たえた墓石がある。

<参考資料>
  「世界と結ぶ豊橋」「東三河産業功労者伝」

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