知多地方の自由民権運動 <時代>明治時代 <地域>知多
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知多市歴史民俗博物館 |
慈眼院(じげんいん)の集合の塔 |
<所在地>
知多市緑12−2(名鉄常滑線朝倉駅下車徒歩15分)
<概要>
明治新政府内の征韓論(せいかんろん)をめぐる意見の対立は,1877年(明治10)の西南戦争によって武力による改革が挫折する。一方,板垣退助らは,藩閥政治に反対して国会開設の要求を政府に提出し,高知県に立志社(りっししゃ)をつくり,運動を全国に広げ,自由民権運動が始まった。
東海地方では愛知県が活発な動きをみせ,名古屋や三河で相次いで組織が結成された。その中で,名古屋の不平士族らは愛国交親社(あいこくこうしんしゃ)をつくり,地租改正により反政府感情の高まった農民らも加えて次第に激しい運動を展開するようになってきた。この運動は知多半島にも及び,その当時の愛国交親社の社員証から分かる。この社員証は,朝倉の月東甚平(がっとうじんぺい)のもので,彼は伍長に任命され,知多の幹事長となっている。このことから,朝倉を中心に知多地方の運動が展開されたと考えられる。
その後,自由党が結成され,三河交親社の内藤魯一(ないとうろいち)が自由党幹部になり,愛知県にも支部が誕生するなど自由民権運動はさらに活発になるが,自由党内の過激な行動派が勢力をもつようになると,「名古屋事件」「飯田事件」を起こし,自由民権運動は衰退していった。
<学習のポイント>
明治時代における自由民権運動の全国的な盛り上がりを示す好例として,地域の素材をぜひ教材化したい。
<見学のポイント>
知多地方の自由民権運動の中心人物であった月東甚平とその子信太郎(しんたろう)の墓は,知多市新知(しんち)の慈眼院(じげんいん)の「集合の塔」の中にある。
<参考資料>
「知多半島の歴史」「知多市誌」
<問い合わせ先>
知多市歴史民俗博物館 0562-33-1571
慈眼院
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