野間大坊(のまだいぼう)  <時代>鎌倉時代  <地域>知多
大御堂寺(野間大坊) 源義朝供養塔

<所在地> 美浜町野間東畠50(名鉄野間駅徒歩10分)
<概要>
 1159年(平治元),平治(へいじ)の乱に破れた源義朝(みなもとのよしとも)は,数人の家来と共に美濃から伊勢湾に出て知多半島沿岸から野間(のま)に落ちのびた。家来の鎌田氏の義父である長田忠致(おさだただむね)を頼ったのである。義朝は正月を忠致宅で過ごすが,平氏からの恩賞を目当てにした忠致に浴室で殺されてしまう。現在,大御堂寺(野間大坊)には義朝の墓がある。その墓には義朝の最後の最期の言葉「せめて木刀一本でもあれば殺されず済むものを」にちなみ,多くの木刀が供えられている。
 なお,忠致は頼朝(よりとも)挙兵の折,父子共々頼朝に罪をわび,「身命を惜しまず抜群の軍功をあげるならば,罪を許し美濃・尾張を与える」という頼朝の言葉を信じその後の合戦では大活躍したという。しかし,頼朝はこの忠致・景致(かげむね)の二人を恩賞として義朝の墓の前で磔(はりつけ)にしてしまう。約束通り「美濃,尾張(身の終わり)」を与えたのである。もちろんこれは後の書物にのった物語である。

<学習のポイント>
 保元・平治の乱や源平の合戦という幾つかの争いを通して,貴族にかわって武士が台頭してくる過程を学ばせる際の具体例として,野間大坊の義朝墓地とそれにまつわる伝説の場所を取り上げたい。
<見学のポイント>
 義朝最期の地となった野間谷には,大御堂寺にある義朝墓所の他,義朝の首を洗ったと伝えられる「血の池」や,長田屋敷跡や湯殿跡,はりつけの松などが残る。
<参考資料>
「知多半島の歴史」
<問い合わせ先・ホームページ>
野間大坊 0569-87-0050
美浜町教育委員会

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