1941年(昭和16),河和海岸周辺の地を海軍が買い取り,海軍航空基地の建設が始まった。 一般住宅だけでなく,寺院・神社・学校までも移転の対象となり,移転費用は,安価でいずれも赤字であったようである。 海岸部の埋め立て工事から始まったが,思うように進まず,1943年(昭和18)にようやく完成, 飛行機整備員の養成を主とした横浜
海軍航空隊知多分遣隊が開設され,半年後,河和航空隊となった。衣浦湾に面し, 海岸には,水上機を海に降ろしたり陸へ揚げるためのスリップがつくられ,木造の格納庫が並んでいた。機種は水上観測機や水上偵察機, 水上戦闘機「強風」など90機であった。駐屯人数は航空整備を主とする教育隊に9000人,実戦部隊に3000人の将兵がいたという。
終戦後,保有資材は払い下げられ,校舎や会社に姿をかえた。現在,跡地には,紡績工場をはじめ大阪航空局名古屋航空標識所や田畑となっている。
田畑の中にはコンクリートの基礎が多く残り,海岸には滑走台も残っている。