音吉(おときち)−初の和訳聖書を完成−  〈時代〉江戸時代  <地域>知多
音吉・久吉・岩吉の記念碑 宝順丸乗組員の墓のある良参寺

<関係地>良参寺(美浜町小野浦)
<業績>
 音吉は1819年(文政2)尾張国知多郡小野浦村に生まれた。当時は小野浦が千石船による廻船業で栄えており、音吉も土地の千石船「宝順丸」で水夫として従事する。1832年(天保3)音吉ら14人が乗り込んだ宝順丸は、遠州灘で嵐に遭い難破し、1年2か月の漂流の末アメリカワシントン州に漂着した。その間に乗組員は次々と亡くなり、生き残ったのは音吉、久吉、岩吉の3人となる。そこで3人は、地元の学校に入学し、英語教育を受けることとなった。
 1835年(天保6)イギリス、マカオと連れられ、マカオでイギリスの通訳の仕事をしていたカール・ギュツラフに協力し、世界で初めての和訳聖書がシンガポールでできあがった。1837年(天保8)、アメリカの商船モリソン号で浦賀に着くが上陸できず、再びマカオに帰った。鎖国のため日本に帰ることができなかった音吉は、後にイギリスに帰化し、イギリスの通訳として日本との交渉に活躍した。
<年譜>
1819年(文政2)尾張国知多郡小野浦村(現美浜町)で生まれる
1832年(天保3)乗組員として働いていた宝順丸が遭難をする
1834年(天保5)アメリカワシントン州に漂着し、現地で英語教育をうける
1835年(天保6)マカオで世界初の和訳聖書を完成させる
1854年(安政元)日英和親条約締結時に通訳として参加する
1864年(元治元)ジョン・マシュー・オットソンとしてイギリスに帰化する
1867年(慶応3)49歳で没

<学習のポイント>
 江戸期の鎖国状態のなかで、帰国が許されなかった人々の悲しみと、国際的な活動をした日本人の好例としてあげる。
 1825年(文政8)の異国船打払令、1837年(天保8)のモリソン号事件と関連
<見学のポイント>
 良参寺には遭難した宝順丸の乗組員の墓地があり、その近くには音吉、久吉、岩吉の記念碑がある。すぐ西側には伊勢湾が広がる小野浦海岸があり、当時の廻船業が盛んだった様子がしのばれる。
<参考資料>
「美浜町誌」
「にっぽん音吉漂流の記」http://www.town.mihama.aichi.jp/kikaku/meisyo/otokichi/index.html

<問い合わせ先>
美浜町役場 (0569)82-1111

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