盛田 善平(もりたぜんぺい) −パン製造に注いだ情熱− <時代>明治時代  <地域>知多
カブトビール赤れんが工場跡

<所在地>カブトビール赤れんが工場跡地(半田市榎下町8)名鉄住吉町駅下車徒歩5分
<概要>
 1862年(文久3),盛田善平は,知多郡小鈴谷村の酒造業の五男として生まれた。酒造業を継いだ善平は,家業を廃業してビールの製造を始める。そして,1899年(明治32)には製粉工場を半田村(現半田市)に建設する。当時,知多では織布産業が盛んで,綿糸ののりづけに使うため,原料である小麦粉が飛ぶように売れたのである。
 善平は,1918年(大正7)の米騒動により,米だけでなく,小麦粉を日本人の食事のひとつにしようと考える。そして,第一次大戦の捕虜であったドイツ人技師を招き,パンを焼くことを考えた。彼は,かまづくりから取り組み,ついに,パンの製造に成功した。社名は,彼が好きな本居宣長の歌「敷島の大和心を人とはば,朝日に匂う山桜花」に由来する。
<年譜>
1862年(文久 3) 小鈴谷村(現常滑市小鈴谷)の酒造業盛田太助の五男として生まれる
1887年(明治20) ビールの製造を始める
1898年(明治31) カブトビールを売り出す
1899年(明治31) 敷島製粉工場を設立
1919年(大正 8) 敷島製パン株式会社を創立
1932年(昭和 7) 日本初の電気運行パン焼きがまを設置
1937年(昭和12) 74歳で没

<学習のポイント>
 明治時代の愛知の歴史をビールやパンといった洋風の食品製造と関連させて理解させたい。
 第一次世界大戦で,ドイツが支配していた青島(チンタオ)を攻め,ドイツ兵捕虜が東京,名古屋,大阪などに収容されていたことと関連させて教えたい。
<見学のポイント>
 赤レンガ工場跡は,半田市が整備をすすめている。第二次大戦中の機銃掃射跡が今も残る貴重な建造物である。
<参考資料>
「郷土に輝く人々6」「半田市史」
<問い合わせ先・ホームページ>
敷島パン http://www.pasconet.co.jp/
半田市公式ホームページ http://www.city.handa.lg.jp/

愛知エースネットへ      トップへ