円福寺(えんぷくじ) <時代>室町時代 <地域>名古屋
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円福寺の門 |
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<所在地>
名古屋市熱田区神戸町301(地下鉄名城線伝馬町駅下車徒歩5分)
<概要>
最澄(さいちょう)が,熱田神宮(あつたじんぐう)参詣の際に毘沙門天(びしゃもんてん,仏法守護神の四天王の一つ)像を安置して始まった天台宗の寺が円福寺であった。
14世紀前半の南北朝動乱期に足利(あしかが)一族とされる厳阿上人(ごんなしょうにん)が時宗(じしゅう)に深く帰依したため,円福寺は時宗の寺となった。寺の山号「亀井山」については,以下の由来がある。厳阿が井戸を掘らせた際に大きな亀の甲羅に似た岩に突きあたった。古来より,熱田には蓬莱島伝説(ほうらいじま,不老不死の島で亀の背の上にあると考えられていた)があったので,「亀井山」と名付けたのである。
江戸時代の初期の歌舞伎は,容色を売り物とする女歌舞伎が中心であった。しかし,火事で焼失したばかりの寺の再建費用を捻出するために,江戸の右近源左衛門(うこんげんざえもん)が本格的な歌舞伎を催し,成功を博した。この後,幕府の芸能統制下でも円福寺は,1657年(明暦3)に芝居の興行権を与えられるまでになる。やがて芝居の中心地は,熱田から城下町名古屋へと移っていく。
<学習のポイント>
名古屋市内で唯一の時宗の寺を確認し,「芸どころ名古屋」の芝居が,円福寺の境内から始まったことを紹介し,歌舞伎のスタイルの変遷にまで触れたい。
<見学のポイント>
山号の「亀井山」の石碑を見ることができる。室町6代将軍足利義教(あしかがよしのり)が富士遊覧の帰りに3日間滞在し,連歌会を催した寺であり,義教自筆の連歌懐紙を所有する。かつては,広大な所領を有していた雰囲気を感じてほしい。
<参考資料>
「名古屋の史跡と文化財」 「熱田区の歴史散歩」 「愛知県の歴史散歩」
<問い合わせ先・ホームページ>
円福寺
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