裁断橋(さいだんばし) <時代>戦国時代 <地域>名古屋
|
|
裁断橋あと |
|
<所在地> 名古屋市熱田区伝馬二丁目5番 姥堂境内(地下鉄名城線伝馬町駅下車徒歩5分)
<概要>
豊臣秀吉は小田原の北条氏を倒して天下統一を果たすが,この征伐に丹羽郡(にわぐん)の18歳の青年,堀尾金助(ほりおきんすけ)が加わっていた。出陣の日,東海道(とうかいどう)筋の裁断橋(名前の由来の一つの説として,この場所で事を決定したり,罪に対する裁きを下したりしたことが言われている)で母親に見送られたが,陣中で病になり,命を落とした。
金助の死を伝え聞いた母親は,出陣を見送った老朽化していた裁断橋の修築を思い立つ。修築が諸人の助けとなり,今は亡き息子の供養になると信じたのである。そして,擬宝珠(らんかんの柱の頭につけるねぎの花のような形の飾り)に以下の銘文を刻んだ。
天正十八年二月十八日に
小田原への御陣
堀尾金助と申す
十八になりたる子をたたせてよ
又二目とも見ざる
悲しみのあまりに
いまこの橋を架けるなり
母の身には落涙ともなり
即身成仏し給え
逸岩世俊(堀尾金助の戒名)と後の世のまた後まで
この書き付けを見る人は
念仏申し給えや
三十三年の供養なり
<学習のポイント>
金助を通じ小田原征伐を身近に感じることができる。そして,古今東西を問わない母親の愛に触れる。息子を宋へ送る悲哀を述べた「成尋阿闍利母集」(じょうじんあじゃりははのしゅう)・鎖国の悲劇「ジャガタラお春の消息文」と並ぶ,日本女性の3大名文をかみしめてみよう。
<見学のポイント>
現在,裁断橋は廃橋となったが,姥堂の境内に3分の1に縮小された橋が残る。また,同境内には「都々逸(どどいつ)発祥の地」の石碑もある。実物の擬宝珠は,名古屋市博物館に現在は保管されている。
<参考資料>
「熱田区の歴史散歩」 「熱田区誌」 「愛知県の歴史散歩 上」
<問い合わせ先>
熱田区役所区民生活部まちづくり推進室 052-683-9425
名古屋市博物館 052-853-2655
愛知エースネットへ トップへ