船頭重吉の碑(せんどうじゅうきちのひ)  <時代>江戸時代  <地域>名古屋
船頭重吉の碑

<所在地> 成福寺境内 名古屋市熱田区白鳥2丁目(地下鉄名城線神宮西駅下車徒歩5分)
<概要>
 堀川(ほりかわ)は,名古屋城と熱田の湊を結んだ名古屋の水運の大動脈であった。堀川沿いには多くの商家が軒を並べており,納屋町の語源にもなっている。そのような豪商の1人の持ち船に督乗丸(とくじょうまる)という船があった。
 督乗丸は,江戸からの帰路の途中の伊豆沖で遭難し,何と484日にわたり太平洋を漂流する。この船の船頭が,重吉であった。イギリス船に救助された時には,14人いた乗組員は重吉を含めて3人になっていた。重吉らは,メキシコ・アラスカを経てロシア領のカムチャッカに10余か月滞在し,4年ぶりに日本へ帰ってきた。(途中で1名死亡)
 日本への帰国後,重吉は時の人となり,苗字帯刀を許されて水主(船頭)として尾張(おわり)藩に召しかかえられた。また,ロシア人との生活で学んだ異文化を「ヲロシアノ言」にまとめ,鎖国体制下の日本へ異文化を紹介した。しかし,重吉は,船上で死んでいった仲間を忘れることができなかった。彼は水主(もんど)を辞し,自らの出版物を売り歩き,資金集めをして笠寺観音(かさでらかんのん)前に供養碑を完成した。
 1853年(嘉永6)に,成福寺(じょうふくじ)の和尚が供養碑を譲り受け,境内に手厚く供養し,現在に至っている。
<学習のポイント>
 納屋町や水主町などの現在の地名を利用しながら堀川を中心とする水運を確認する。また,鎖国体制下で漂流の後に異国の文化を日本へ紹介した人物では,大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)や中浜万次郎(なかはままんじろう)が有名だが,郷土にも重吉がいたことを紹介する。また,職を辞し,仲間の供養をした重吉の人間性にも注目したい。
<見学のポイント>
 海と船に関連して,千石船の形をした珍しい供養碑が池の中に現在建てられている。帆柱の「南無阿弥陀仏」の念仏に船頭重吉の思いを感じてほしい。
<参考資料>
 「熱田区の歴史散歩」 「名古屋の史跡と文化財」 「愛知県の歴史散歩」
<問い合わせ先>
 成福寺

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