熱田空襲跡(あつたくうしゅうあと)  <時代>昭和時代  <地域>名古屋
熱田空襲あと

<所在地> 堀川プロムナード内 名古屋市熱田区千年1(地下鉄名城線伝馬町駅下車徒歩15分)
<概要>
 太平洋戦争中の1945年(昭和20)6月9日に愛知時計電機株式会社などを標的とした熱田空襲が米軍によって行われた。わずか10分あまりの間に2,068名の死者(218名の学生を含む)と数千名の負傷者を出した空襲であった。また,この空襲では,本土で初めて高性能2トン爆弾が使用されていたことが確認されている。
 熱田の軍需産業は,1905年(明治38)に陸軍の造兵廠熱田兵器製造所が六野町に建設されたことから始まる。また,堀川(ほりかわ)に良質な木材が集まること,電力が豊富であったこと,資本や労働力及び広い土地があったことなどの条件が重なり,航空機製作が1920年(大正9)から行われるようになる。
 1938年(昭和13)に労働力・物資の割当てなどの統制運用を議会の承認を経ずに勅令で行うことができるようになる国家総動員法が発布された。この体制下で,愛知時計・愛知航空機株式会社(愛知時計より1943年に独立)を中心とする熱田の軍需産業は,周辺の人々を勤労動員して全国の6割を占める航空機産業へ発達する。1944年(昭和19)の学徒勤労令(がくときんろうれい)からは,中学生以上の全員を国が指定する勤労作業に従事させることが可能になっていた。
<学習のポイント>
 一般企業が軍需産業に関係していた事実やそこで働く学生を含む勤労動員を通して,内地の総動員体制を確認する。そして,戦争と平和について考えたい。
<見学のポイント>
 住民運動の結果,堀川西岸の堀川プロムナードに熱田空襲跡を今に残す「旧護岸と鉄柱」が保存されている。この近辺には空襲の傷跡が以下の地にも残されているので足を延ばしてみたい。  愛知時計正門前の地蔵尊・白鳥橋西角の地蔵尊・熱田神宮南門の大鳥居(地上から高さ3mの位置に爆片)も見学するとよい。
<参考資料>
 「熱田区誌」 「堀川沿革誌」
<問い合わせ先>
 熱田区役所区民生活部まちづくり推進室 052-683-9425

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