五郎丸の稲荷社にある。この地域のキリシタン弾圧による殉難者の供養塔である。
1661年(寛文元)尾張藩によるキリシタン弾圧は美濃国塩村,帷子(かたびら)村(岐阜県可児市)にはじまり,引き続いて犬山の役人も加わって,五郎丸(ごろうまる)村(犬山市)から高木村(扶桑町)へと波及した。
五郎丸村では,このとき捕らえられた者35人を含め,これ以後7年間に124人が捕らえられた。捕らえられた者の中で罪を許された者数名を除いては,処刑または獄死したといわれる。当時の五郎丸村の人口は205人で,村の人口が半減し,一時橋爪(はしづめ)村に合併された。現在,五郎丸には万願寺(まんがんじ)という地名があるが,もともとは満願寺というキリシタン寺があって,1612年(慶長17)の
家康の禁教令に従って取り壊され,今は「諸神諸佛諸菩薩(しょしんしょぶつしょぼさつ)」と書かれた卒塔婆(そとうば)のみが残っている。