久野源蔵と愛知用水  <時代>昭和時代  <地域>西三河
久野源蔵銅像 三好池全景

<所在地> みよし市三好町(名鉄名古屋本線知立駅下車,名鉄バス乗り換え,三好下車徒歩2分)
<概要>
 久野源蔵(1897-1965)は,新屋で代々庄屋を務めた地主の家に生まれた。久野源蔵は,1931年(昭和6)に三好村村長となって以来,合計16年間村長を務め,1958年(昭和33)町制がしかれると,初代町長となり農業・工業・教育の発展に力を尽くした。
 当時の三好町には,大きな川がなく,ため池が多く造られていた。しかし,1940・1944・1947年(昭和15・19・22)の大干ばつにより,農民は大きな被害を被っていた。
 愛知県では,1948年(昭和23)に木曽川の水を尾張東部へ引く計画を立てた。このころ水不足に悩む知多半島では,久野庄太郎と浜島辰雄らが熱心に用水を引く運動をしていた。1949年(昭和24)には,春日井市や知多半島の市町村が「愛知用水開発期成同盟会」を設立して,用水を引く運動が始まり,用水の名前も「愛知用水」と決められた。
 三好村の村長であった久野源蔵は,ため池の水に頼る農業では農家の暮らしはよくならないと考え,運動に加わりひたすら実現を期した。
 そして1959年(昭和34)に,最も早くから着工していた三好池(貯水量220万u)が完成した。さらに1961年(昭和36)には,愛知用水が完成し通水が始まった。こうして岐阜県可児郡八百津町兼山取水口から三河湾の篠島まで120qの長さを愛知用水が流れることになった。みよし市へは,日進市より分流し,支線水路,末端水路(総延長61,500m)によって,市全域にゆきわたり,山林原野は開墾され新たな農地が造成された。
<学習のポイント>
 久野源蔵の業績と愛知用水のはたらきを調べ,戦後日本の高度経済成長政策の中で,農業の近代化に果たした役割を学習する。 
<見学のポイント>
 久野源蔵の業績を讃える銅像は,市役所前広場右手にある。三好池には記念碑があり,碑文に久野源蔵が詠った「木曽の水 涼し愛知の大平野」が刻まれている。
<参考資料>
 「三好町誌」 「愛知用水史」 副読本「みよし」(三好町教育委員会)
<問い合わせ先>
 みよし市教育委員会  市役所(代) 0561−32−2111

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