矢作川の水運(やはぎがわのすいうん)  <時代>江戸〜大正時代  <地域>西三河
百々貯木場跡 樋門

<所在地> 豊田市百々町(名鉄バス百々下車約3分)
<概要>
 矢作川は岡崎を中心とする西三河地方と信州を結ぶ重要な運輸交通路であった。川船の最盛期は,1860(慶応)年代で,下流の中畑(西尾市)には百艘を超す川船が川面を往来していたといわれる。川船による矢作川の水運が発達したのは1670年(寛文年間)ごろで,すでに幕府の船番所が東広瀬(現在の豊田市東広瀬町)にあったと言われる。
 矢作川は流れがゆるく,川底も浅いため必ずしも重い荷物を乗せた川船の運行には適していなかった。そのため,矢作川の川船は,船幅が広く,船底は浅い構造になっていた。船の中央に帆をはり,ろ・かい・さおを使った。矢作川では川船でさかのぼれるのは,古鼠(ふっそ)・越戸(こしど:豊田市)までであり,支流の巴川では平古・九久平(豊田市)までであった。その先は飯田街道,足助街道に接続していた。
 上りの荷物は,塩,鉄,土管,綿,大豆,米などで,下りは材木,薪炭,タバコ,紙などであった。米についての運賃を比べると牛馬は川船の実質5倍になる。木材は古鼠,百々(どうど)(豊田市)の大きな木材問屋で筏(いかだ)に組まれ下流に送られた。
 矢作川の川船は,明治以降しだいに衰える。明治用水,枝下(しだれ)用水の完成で流量がへり,1911年(明治44)の中央本線の開通により大打撃を受けた。その後大正期の道路の整備や1929年(昭和4)の越戸発電所の完成で川船は急速に減少し,さらにトラック輸送の発達で終わりを告げた。
<学習のポイント>
 水運は初め幕府や諸藩が年貢米や特産物を中央へ運び出すために開かれたが,しだいに商業上の目的にも利用された。水運の発達と衰えをその時代背景から学習する。 
<見学のポイント>
 百々貯木場は,矢作川に隣接した面積5,000uの貯木場で,上流からの木材をここで筏に組み,河口へ送っていた。現在史跡公園として大正時代の名残が残されている。
<参考資料>
 「三河の街道と宿場」(監修大林淳男・日下英之)「豊田市史」
<問い合わせ先>
 豊田市教育委員会 文化財保護課 0565−32−6561

 愛知エースネットへ      トップへ