加茂一揆と松平辰蔵(かもいっきとまつだいらたつぞう)  <時代>江戸時代  <地域>西三河
一揆蜂起の地 滝脇村石御堂 松平辰蔵の墓

<所在地> 豊田市滝脇町向田(名鉄三河線豊田市駅下車,とよたおいでんバス下山・豊田線大沼行き林添下車,徒歩20分)
<概要>
 加茂一揆(かもいっき)は,1836年(天保7)9月,九久平村(くぎゅうだいら:現豊田市)周辺の農民たちの動きを発端として,全松平地域と下山村南西部,足助町全域を巻き込み,さらに挙母(ころも)城下に押し出し,農民1万人以上が加わった三河地方最大の農民闘争であり,江戸幕府の天保の改革(1841年)の原因にもなった一揆である。
 一揆の直接の原因は,「天保の大飢饉(だいききん)」による農民生活の極度の困窮であった。人望があった松平辰蔵(まつだいら たつぞう)は,この一揆の頭取としてかつがれた。辰蔵は強訴(ごうそ)により要求を通そうとして,酒屋・役人との交渉に臨んだ。しかし,足助(あすけ)の農民が加入したころから統制が乱れ,辰蔵の家が打ちこわしに遇う。
 頭取を失った一揆は,打ちこわし本位の世直し一揆へ変化する。5日間にわたる一揆は247町村,13,000人の参加者をみたが,岡崎藩・吉田藩の加勢で鎮圧された。
<学習のポイント>
 江戸時代後期になると百姓一揆や打ちこわしが頻繁におこる。ここでは松平辰蔵に焦点をあてて,一揆のあらまし,農民の願いと動き,幕府政治の行き詰まりを学習させる。 越訴(おっそ)事件の飯野八兵衛との比較検討により,一揆の性格が明らかになる。 
<見学のポイント>
 一揆蜂起の地,滝脇村石御堂(いしみどう)は,滝脇町向田にあるが,当時より上に移動している。松平辰蔵の墓は,豊田市九久平町簗場にある。また,屋敷跡は大内町宮脇にあるが,現在は民家が建てられている。
<参考資料>
 「とよたの人物記1」(平成元年,豊田市教育委員会発行)
 「鴨の騒立ち」 「松平町誌」 「豊田市史」 「加茂の一揆」
<問い合わせ先>
 豊田市教育委員会 文化財保護課 0565−32-6561

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