中馬街道 (ちゅうまかいどう) <時代>江戸時代 <地域>西三河
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弘化3年の道しるべ |
足助の町並み |
<所在地> 豊田市足助町新町〜田町(名鉄三河線猿投駅下車,とよたおいでんバスさなげ・足助線百年草行き足助学校下下車,徒歩5分)
<概要>
三河から,足助を通り,信州(長野県)の根羽(ねば)・平谷・浪合・飯田・伊那に至る道は,塩を運んだ道として古くから重視されてきた。
「中馬」は,江戸時代に,信州の馬稼ぎ人たちがつくっていた同業者の組合で「賃馬」(ちんば)「中継馬」(ちゅうけいば)などが語源と言われる。この中馬は,信州から年貢米・タバコ・その他,山の産物,足助から「足助塩」「足助直し」と呼ばれた塩を中心に運んだ。三河湾沿いの大浜・棚尾(碧南市),生田(一色町)などでとれた塩は,矢作川の古鼠(ふっそ:豊田市),矢作川支流の巴川の平古(ひらこ:豊田市)まで川船で運び,そこから馬の背で足助の塩問屋に送られた。
運ばれてきた塩は産地によって目方が異なっていたので,足助の塩問屋は山道に適するように,7貫目(約26s)に俵を包み直し,信州へ運んだ。塩問屋は14軒(江戸時代後半)あり,年間2万俵(明治中期)を越える塩が信州へ運ばれたとされる。一頭の馬の背に,4俵ずつつけて運んだので,年間延べ5,000頭を越える馬が必要とされた。
塩の中継地として栄えた足助は,明治後半,中央線の全通化に伴い,宿場的性格はほとんどなくなっていった。
<学習のポイント>
江戸時代後期には商業や運輸業が発達した。塩の中継地・宿場町としての足助の発展を調べ,当時の流通に果たす問屋・
馬稼ぎ人・街道の役割を考えさせる。
<見学のポイント>
足助町の中心部には,白壁や土蔵などの江戸時代後半の町並みがよく残っている。また,随所に案内板が設置されており分かりやすい。
市街地の中央を流れる巴川沿いには,当時の道が残っており散策できる。
足助中馬館は,1912年(大正元)に建造された旧稲橋銀行足助支店の社屋を使用したもので,当時の地方銀行の様子をうかがうことができる。
中馬街道の運賃取り決めの資料や明治期の商店の様子などを知ることができる。
<参考資料>
「足助町誌」 「新・三州足助」
<問い合わせ先>
足助中馬館(豊田市足助町田町11) 0565−62−0878
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