吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)-不運の吉良家名君-  <時代>江戸時代  <地域>西三河
吉良上野介義央 木像 吉良上野介義央の墓(華蔵寺)

<関係地> 華蔵寺 西尾市吉良町岡山  (名鉄西尾線上横須賀駅下車徒歩20分)
<業績>
  吉良荘一帯は矢作川下流の肥沃な沖積平野であるが,たびたびの洪水で人々は苦しんだ。そこで吉良義央は直接西尾藩主と話し合い,一昼夜で築くことを条件に堤を作ることの許可を西尾藩から得た。付近の郷民総出で完成させた。それが別名「一夜堤」とも言われ,現在も残る黄金堤(こがねづつみ)である。また,1686年(貞享3)ころから妻富子(とみこ)が重い眼病にかかり,身延山に願を掛けたところ不思議と治癒した。そのときのお告げに従って矢崎川河口約90町歩の海を干拓して開いたのが富好新田(とみよししんでん)である。その新田の一部を塩田にして「饗庭塩」(あいばえん)と名付けて販売もした。領地を赤馬に乗って巡回し,領民に気楽に話したという伝説もある。「忠臣蔵」では,悪役の扱いを受けているが,当地では「民のための殿様」としてしのばれている。
<年譜>
1641年(寛永18) 
1657年(明暦 3) 
1658年(万治元) 
1666年(寛文 6) 
1668年(寛文 8) 
1669年(寛文 9) 
1686年(貞享 3) 
1688年(元禄元) 
1701年(元禄14) 
1702年(元禄15) 
江戸鍛冶橋邸に出生する
従四位下に叙され,上野介と称する
上杉綱勝の妹富子をめとる
弟義叙に東条家を再興させる
父が没し家督を相続する
妙心寺に天英和尚を請い,華蔵寺住職とする
黄金堤を築く
新田開発(富好新田)をはじめる
浅野長矩に傷つけられる
赤穂浪士の襲撃を受け,61歳で没

<学習のポイント>
  吉良義央の業績には他にどんなものがあるのだろう。
<参考資料>
  「三河人物散歩」 愛知県教育文化振興会
  「吉良町誌」 吉良町
<問い合わせ先・ホームページ>
  吉良町教育委員会 0563−32−2151  http://www.town.kira.lg.jp/pub/kyouiku/sanninsyu/kirakou/index.htm

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