太田 白雪(おおたはくせつ)―芭蕉と交流のあった新城の俳人―
                         <時代>
江戸時代  <地域>東三河
太田白雪像 太田白雪句碑(永住寺)

<関係地> 新城市裏野永住寺(太田白雪の墓) JR飯田線新城駅下車徒歩8分

<業績>
  白雪は新城で酒造,味噌,米などを扱う豪商太田弥平太重長(おおたやへいたしげなが)の四男として生まれた。父親の影響で俳諧の道に進み,新城地方の俳壇の中心となる。
  1691年(元禄4)白雪31歳のとき松尾芭蕉が奥三河を訪れ,芭蕉を接待し,鳳来寺山などを案内している。その後は芭蕉の門下として一層地方俳諧の盛り上げに努力し,天文・歴史・地誌など郷土研究家として多くの研究著作物を残した。『きれぎれ』『三河小町』『続柳陰』(ぞくやなぎかげ)『鳳来寺紀行』『新城聞書』(しんしろききがき)などがそれである。

<年譜>
1661年 (寛文 1) 新城に生まれる 2歳で父と長兄を失い7歳で母を失う
1676年 (延宝 4) 古今伝授をうける
1649年 (元禄 4) 31歳のとき松尾芭蕉が新城を訪問したときに接待する
1769年 (元禄12) 「俳諧曽我」刊行
1702年 (元禄15) 「三河小町」刊行
1726年 (享保11) 「続柳陰」刊行
1731年 (享保16) 「新城雑旧記」
1735年 (享保20) 75歳で没

<学習のポイント>
  松尾芭蕉の確立した江戸時代の蕉風俳諧の門人として,地方の俳壇の盛り上げに努力した白雪の生涯を通じて,芭蕉や焦門俳諧を身近に感じてみよう。

<見学のポイント>
 
白雪の菩提寺である新城市の永住寺には,山門前に「大守より御茶碗を拝領して即席『山雀(やまがら)の胡桃(くるみ)まはさん雪の宿』白雪」の句碑,また本堂奥の白雪の墓の横には辞世の句である「安心は病が上の極書かな」の句碑がある。

<参考資料>
 「新城市誌」「東三河の歴史」「新城昔ばなし」

 愛知エースネットへ      トップへ