豊川用水と近藤寿市郎(とよがわようすいとこんどうじゅいちろう) <時代>明治・大正・昭和時代 <地域>東三河
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豊川用水 |
近藤寿市郎の像 |
<関係地> 赤岩公園(豊橋鉄道市内線 赤岩口下車 東1800m)
<概要>
豊橋を中心とする東三河地方の農業用水をはじめ上水・工業用水を支えている豊川用水は,
東西分水工(ぶんすいこう)から二つに分かれ,蒲郡市と渥美町まで通っている。戦前から,
川の水を使えるところが少なく多くの人々が作物を育てるのに苦労していた東三河地方,とりわけやせた土地と日照りに苦しむ渥美半島に住む人々は,水不足に悩んでいた。
この半島に豊川の水を引こうと考えたのが, 1870年(明治3)渥美郡高松村(現・田原市高松町)生まれの政治家近藤寿市郎である。寿市郎は,1921年(大正10),ジャワ島の農業水利事業をヒントに,奥三河の宇連川に大貯水池を築き渥美半島などを
潤す灌漑用水路建設の計画を出した。しかし計画は1927年(昭和2)の全国的な金融恐慌や1937年(昭和12)の日中戦争の影響で戦前は実現しなかった。戦後,1949年(昭和24)に着工,20年の歳月をかけ,ついに渥美まで通水,完成した。
<学習のポイント>
電照菊やメロン作りなど渥美半島の農業に,豊川用水が果たした役割について考えてみよう。
<見学のポイント>
豊橋市の赤岩公園には,近藤寿市郎の銅像が建てられている。
芦ヶ池調整池横の農業公園「サンテパルク田原」には,豊川用水によって変わった渥美半島の農業についての展示がある。
<参考資料>
「東三河の近代を築いた人びと」「豊川用水」
<問い合わせ先>
水資源開発公団豊川用水総合事業部 0532-54−6501
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