社伝によると,この社は7世紀半ばごろ,大分県の宇佐八幡宮から分霊(ぶんれい)して,この地に迎え,まつられたと言う。道路を隔てたすぐ東側には国分寺の跡がある。奈良時代に入って諸国に国分寺が造営されると,宇佐八幡宮から分霊してまつられた手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)が東大寺の鎮護(ちんご)の神となったように,この八幡宮も三河国分寺の鎮護の神として人々の尊崇(そんすう)を受けるようになったと考えられている。また,源頼朝,今川氏真(うじざね),
徳川家康が社領を寄進しているように,武家とのつながりもある。
本殿は,1477年(文明9)の建立で,室町時代中期のものである。建築形式は三間社流造(さんげんしゃながれづくり),屋根は桧皮葺(ひわだぶき)である。三間社流造というのは,流造のひさしの部分の軒柱が四本で,柱間が三つある流造ということである。桧皮葺とは,桧(ひのき)の皮を重ねてふくふき方で,高級建築に用いられる。1907年(明治40)に国の重要文化財に指定された。素朴な鎌倉時代建築から装飾の多い江戸時代建築へ移る中間の,室町建築の特徴を備えていると言われる。