茨木のり子
(いばらぎのりこ)

大正15年(1926) 宮崎洪と勝の長女として、医師の父の赴任地である大阪に生まれ          る。
昭和7年(1932) 愛知県西尾市に転居。
昭和8年(1932) 西尾小学校に入学。
昭和12年(1937) 母勝を亡くす。  
昭和14年(1939) 愛知県立西尾高等女学校(現、愛知県立西尾高等学校)入学。第
         二の母、のぶこを迎える。
昭和17年(1941) 父親が愛知県幡豆郡吉良町吉田で開業。吉良町に転居。  
昭和18年(1943) 「女も資格を身につけて一人で生き抜く力を持たねばならぬ」と
         いう父の方針により、帝国女子医学・薬学・理学専門学校(現、
         に入学。  
昭和20年(1945) 学徒動員により世田谷区上馬の海軍療品廠で就業中、敗戦の放送
         を聞く。翌日、友人と郷里に戻る。  
昭和21年(1946) 九月に大学を繰り上げ卒業。薬剤師の資格を得るが、劣等生であ
         ったとの思いから、薬剤師の資格を使うことはなかった。戯曲
         「とほつみおやたち」読売新聞戯曲第一回募集に佳作入選。  
昭和24年(1949) 医師である三浦安信と結婚。埼玉県所沢市に住む。
昭和25年(1950) 詩学研究会に詩を初投稿。この時、初めて茨木のり子のペンネ
         ムを使用。
昭和28年(1953) 同じ詩学研究会に所属していた川崎洋とともに、同人詩誌「櫂」
         創刊。
         以後、谷川俊太郎、吉野弘、友竹辰、大岡信、水尾比呂志、岸田
         衿子、中江俊夫氏らが参加。        
昭和30年(1955) 第一詩集『対話』を刊行。その後も詩集を刊行。『見えない配達
         夫』(1958)、『鎮魂歌』(1965)など。           
昭和50年(1975) 夫を亡くす。
昭和51年(1976) 韓国語を習い始め、平成3年(1991)、に『韓国現代詩選』で読
         売文学賞受賞。       
         並行して詩作も続け、詩集を刊行する。『自分の感受性くらい』
         (1977)、
         『倚りかからず』(1999)など。  
平成18年(2006)2月17日 くも膜下出血のため東京都西東京市東伏見の自宅で死去
         (79歳)。翌年、本人の遺志もあり、先立った夫への想いを綴っ
         た約40編の詩が詩集『歳月』としてまとめられ一周忌に合わせ刊
         行される。
 
   

愛知県とのかかわり

  「わたしが一番きれいだったとき」の作者である茨木のり子は、幼少期から高等女学校までを愛知県西尾市で過ごした。愛知県立西尾高等女学校は全国に先がけて制服をモンペに改めた学校で、良妻賢母教育と軍国主義教育を一身に浴びたと茨木は回想している。女学校では文芸部に所属し、校誌『校友』13号には宮崎圀子の名で「野良犬」という作品を寄稿している。
 「わたしが一番きれいだったとき」には、戦争によって青春を失った哀しさと虚しさと悔しさと、それでも生きていこうとする健気さが表現されている。


校誌

女学校時代に茨木のり子が寄稿した校誌『校友』


教材化のヒント

  戦禍で青春を失った哀しさと虚しさと悔しさと、それでも生きていこうとする今後の人生に向けた決意が、非常に平易な言葉で素直に語られている。特に難解な部分もなく解釈を要しない作品であるため、この詩の背景にある社会情勢を押さえつつ内容の読解をするも、そこに留まることなく、この詩を基に自身の考えを広げたり、他者との関わりの中で考えを深めたりするとよいだろう。詩に内面を表現することによって、作者自身の葛藤を昇華しているものとも言えるため、詩の創作への動機付けとして用いてもよい。

    具体的な学習活動例
   ・詩の成立した社会情勢や、他の作品などとの関係をグループで調べたり、
    発表したりする活動。
   ・茨木のり子の詩を参考に、自分の内面を表現した詩を創作する活動。

    身に付けさせたい力
   ・言葉には、想像や心情を豊かにする働きがあることを理解する力。
   ・作品や文章に表れているものの見方、感じ方、考え方を捉え、内容を解釈
    する力。
   ・詩を創作するために、選んだ題材に応じて情報を収集、整理して、表現し
    たいことを明確にする力。




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