横須賀小学校の近くに,供養塔と「今川義基墳」と刻まれた碑が建つ塚がある。 この塚は
今川義元の墓と言われている。1569年(永禄3),天下に号令すべく駿河の大名
今川義元 (いまがわよしもと)が東海道を大軍とともに京都を目指した。しかし,
桶狭間の戦いにおいて, 織田信長の奇襲にあい,戦死する。この時,敗れた今川方の家来たちが,この地まで逃れ, 義元の遺体を永昌寺(現在はない)に葬り,墓を守るためにこの地に住み着いたという。
「義元」を「義基」として祀っているのは,織田の勢力が強いために遠慮して字を変えていると言われている。 また,塚近くの地に,戦いに敗れた
今川義元の家臣が逃れてきたが,ついに息絶え,村人が12人の亡骸(なきがら) を葬ったとされる十二塚という地名も残っている。1864年(元治元)には,今谷要蔵という船頭が,
伊勢の海で難破しかけたとき,日頃から信仰していた「今川さん」に助けられたとして, 塚の周辺の地を買い取り,祠(ほこら)を建てたという話も残っている。
周辺地域は合戦当時,海岸近くであり,『万葉集』にも詠まれた可家の湊(かけのみなと)があった地域でもある。
隣の諏訪神社には,全国でも3番目に古い1818年(文化15)の万葉の歌碑が残っているので,あわせて見学したい。