今川義元の胴塚(いまがわよしもとのどうづか) <時代>戦国時代  <地域>東三河
大聖寺に残る今川義元の胴塚

<所在地> 豊川市牛久保町岸組(JR飯田線牛久保駅下車徒歩5分)


<概要>
 今川氏は,駿河国(するがのくに)の戦国大名で,15世紀末から16世紀にかけて東三河地方に勢力を伸ばしはじめた。1546年(天文十五年)今川義元は今橋城(吉田城)を攻め落とし,翌年田原城を攻めこれを落城させると,城代を置き東三河支配の拠点とした。また1549年(天文18)には岡崎城にも城代を置き,三河全域を支配するに至った。1560年(永禄3)織田信長による今川所領の攻勢を期に,義元は上洛を決意し尾張の桶狭間で織田信長と対立する。これが有名な桶狭間(おけはざま)の戦いである。しかし義元は,桶狭間での休憩中に激しい雷雨にあい,そこを奇襲した織田軍により討たれて首を取られることとなる。今川の家臣たちは首のない胴体だけの義元の遺体を背負い,駿河へ退却する途中,牛久保の大聖寺(だいしょうじ)の境内にひとまず葬った。そして手水鉢(ちょうずばち)をその上に目印として置いた。そして3年後義元の子氏真(うじざね)により三回忌が営まれ宝塔が建てられた。 

<学習のポイント>
 桶狭間の戦いは,織田信長が天下を統一していくきっかけとなった重要な合戦である。その学習の中で,敗れた今川方のことをこの史跡を通じて考えさせたい。 

<見学のポイント>
 現在,大聖寺の境内には,義元の子氏真(うじざね)により建てられた宝塔と,目印とされた手水鉢がその台石としてそのまま残っており見学できる。

<参考資料>
 「豊川市史」・「図説東三河の歴史」・「東三河の歴史」・「豊川の歴史散歩」


 愛知エースネットへ      トップへ