黒鍬稼ぎ(くろくわかせぎ) 〈始まり〉江戸時代 〈地域〉知多
郡道工事の様子 工事に使用した鍬(知多市歴史民俗博物館展示)

〈関係地〉知多市・常滑市
〈概要〉
 新美南吉の童話にも度々登場する大野(常滑市)から半田・亀崎に至る大野街道は,かつて黒鍬(くろくわ)街道とも呼ばれていた。この黒鍬とは,近世から明治時代かけて活躍し,各種の土木工事に従事した出稼ぎ人夫のことで,一般には黒鍬師とも黒鍬衆とも呼ばれていた。100年ほど前の大野街道は,鍬頭と呼ばれる親方を中心に,10〜30名ほどの集団が行き来していた。
 この黒鍬稼ぎがいつから始まったかは正確には分からないが,江戸時代の記録には,知多市から常滑市にかけての農民が,尾張・三河はもとより,近県から畿内にまで出掛けて行ったことが記録として残っている。もともとは,農業だけでは生活することのできない知多半島の農民が,尾張藩の許可を得て,農閑期に土木工事に出稼ぎに行くことによって,現金収入を得ていたものであった。それが,新田開発やため池工事,道路普請などに優れた技術をもつようになったため,仕事も多くなり,後には1年を通して出掛ける者も出るようになった。こうして,知多地方の農村生活を支えた黒鍬稼ぎは,明治時代の中ごろからの社会の変化につれ,次第に形を変えていき,消えていったものと考えられている。  

〈学習のポイント〉

 大野鍛冶と共に,中世から発展してきた産業の一例として取り上げたい。
 農閑期に出稼ぎを行っていた知多半島の人々の苦労をとらえさせたい。

〈参考資料〉

 「知多市誌」「知多半島が見えてくる本」

〈問い合わせ先・ホームページ〉
 知多市歴史民俗博物館 0562-33-1571 http://www.city.chita.aichi.jp/kyouiku/syougai/hyu-tory/index.html

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