加藤 清正 生誕の地(かとうきよまさせいたんのち)  <時代>戦国時代   <地域>名古屋
妙行寺の門

<所在地>名古屋市中村区中村町木下屋敷22 妙行寺境内 (地下鉄東山線中村公園駅下車徒歩10分)
<概要>
 1562年(永禄5)に現在の妙行寺(みょうぎょうじ)の場所で加藤清正は生まれた。母親が豊臣秀吉(とよとみひでよし)の母親と従姉妹の関係にあったことから,幼いころから秀吉に仕えることになる。鉄砲の野戦使用で有名な長篠(ながしの)の戦いで初陣を飾り,秀吉が織田信長(おだのぶなが)の後継者をかけて争った賤ケ岳(しずがたけ)の戦いでは,福島正則(ふくしままさのり)らとともに7本槍の1人として数えられるほどの活躍を見せる。また,豊臣政権下では,小西行長(こにしゆきなが)とともに朝鮮出兵で名をはせる。
 秀吉の死後,文吏派の石田光成(いしだみつなり)と不仲になる。関ケ原(せきがはら)の戦いでは,領国の肥後(ひご)にとどまり,隣国の文吏派,小西行長を攻めた功績が家康に認められる。
 妙行寺は,もともと真言宗の寺であったが,鎌倉時代に日蓮宗の寺となった。母親が熱心な日蓮宗徒であった。そこで,名古屋城(なごやじょう)築城を徳川家康(とくがわいえやす)に命じられた際に,余った木材を使用して,自らの生誕の地へ寺を再建したのが妙行寺の始まりといわれている。(元は,現在の100mほど東にあった)
<学習のポイント>
 妙行寺の再建,関ケ原の戦いへの不参加,徳川家康と豊臣秀頼(とよとみひでより,秀吉の子)の二条城(にじょうじょう)会見の話などから,清正の人間性に触れてみるのもよい。また,朝鮮出兵の際に学んだ築城技術が熊本城(くまもとじょう)や名古屋城に生かされたことも調べてみよう。
<見学のポイント>
 「加藤清正公」の石像や「清正誕生之碑」の石碑を見ることができる。近隣には,「豊公(ほうこう)誕生之碑」があるので,秀吉との主従関係を再確認する。
<参考資料>
 「名古屋いまむかし」 「愛知県の歴史散歩」
<問い合わせ先>
 妙行寺

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