四間道(しけみち) <時代>江戸時代 <地域>名古屋
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四間道の街並 |
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<所在地>
名古屋市西区那古野町1 (地下鉄鶴舞線丸の内駅下車徒歩4分)
<概要>
名古屋に城下町ができるまでは,尾張の中心地は清洲(きよす)であった。しかし,徳川家康(とくがわいえやす)の命で名古屋城築城とともに名古屋の街が作られた。この際,清洲から武士・町人・寺社などがそろって移動した「清洲越し」は有名である。
城下町は計画的に作られ,身分により居住地が決められた。熱田(あつた)の湊と名古屋城を結ぶ堀川(ほりかわ)には,当然のことながら,水運を利用する商家が立ち並んだ。ちなみに,堀川は,豊臣に縁の深いの福島正則(ふくしままさのり)を中心に,20の大名が普請を命じられた。商家の玄関は,物資の集散を行うため堀川に向かい,土蔵が家の裏手に作られた。これが,堀川に沿って土蔵が立ち並ぶ四間道のゆえんである。
四間道の語源には,以下の説がある。1700年(元禄13)に元禄の大火といわれる火事により,1649軒の町屋と15の寺社が焼失した。尾張藩4代藩主の徳川吉通(とくがわよしみち)は防火方法を研究させ,堀川沿いにある商家の裏道幅を4間(約7m)に拡張した。商家の焼失を避けたかったのである。
<学習のポイント>
名古屋が「清洲越し」により計画的に作られた町だったことに気付く。また,現在は道路と自動車の発達で陸上輸送が中心だが,当時の名古屋は堀川の水運輸送が中心だったことも理解したい。
<見学のポイント>
「清洲越し」の商人であり苗字帯刀を許可された川伊藤家(かわいとうけ,松坂屋の伊藤家と区別するためこう呼ぶ)をはじめ,堀川西岸の裏道に残る土蔵の並び(町並み保存地区に指定)を見ることができる。
<参考資料>
「名古屋いまむかし」 「堀川沿革誌」 「名古屋の史跡と文化財」 「愛知県の歴史散歩 上」
<問い合わせ先>
名古屋市西区役所まちづくり推進室 052-523-4524
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