東照宮(とうしょうぐう) <時代>江戸時代 <地域>名古屋
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東照宮の門 |
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<所在地>
名古屋市中区丸の内2−3−37(地下鉄鶴舞線丸の内駅下車徒歩8分)
<概要>
徳川家康(とくがわいえやす)は,儒学者や僧を側近に置いていたが,天台宗の僧である天海(てんかい)もその1人であった。家康の死後,天海を中心に家康の神格化政策が展開していく。朝廷から東照大権現(とうしょうだいごんげん)の神号が与えられ,栃木(とちぎ)県の日光には日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)が建立された。
東照宮は全国にも作られており,現在でも100以上残っている。尾張(おわり)藩の藩祖徳川義直(とくがわよしなお,家康の九男)は,1619年(元和5)に名古屋城三の丸天王社(てんのうしゃ)の西に東照宮を造営した。しかし,明治になり名古屋城内に鎮台(ちんだい)が設けられたため,尾張藩の藩校だった明倫堂(めいりんどう)址地に移築された。
明倫堂は,9代藩主徳川宗睦(とくがわむねちか)の命で設立された。学事を監督する初代督学(とくがく)には,米沢(よねざわ)藩の上杉鷹山(うえすぎようざん)の下で藩政改革に成功した東海市(とうかいし)出身の細井平洲(ほそいへいしゅう)を指名した。明倫堂は平洲の意見により,一般の人々にも聴講が許され,明治維新で役割を終えるまで,尾張全域にわたって大きな影響を与えた。
<学習のポイント>
全国に東照宮があったことを確認し,徳川家康の死後も江戸幕府の精神的支柱になっていたことを確認する。また,明倫堂は私立明倫中学校,県立明倫中学を経て現在の県立明和高校に至っていることを理解し,郷土の学者細井平洲についても掘り下げてみよう。
<見学のポイント>
現在の東照宮の本殿は,徳川義直の正室の御霊屋を建中寺(けんちゅうじ,尾張藩主代々の菩提寺)から移築したものであり,代表的な霊廟建築である。また,明倫堂跡地には,石碑が建っている。
<参考資料>
「名古屋の史跡と文化財」 「名古屋いまむかし」 「愛知県の歴史散歩」
<問い合わせ先>
東照宮
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