都築 弥厚(つづきやこう) -明治用水の計画をつくった人-  <時代>江戸時代  <地域>西三河
都築弥厚像(弥厚公園) 都築弥厚の墓 本龍寺(ほんりゅうじ)

<関係地>
弥厚公園 安城市和泉町宮前 (JR東海道線安城駅あんくるバス南部線和泉丈山苑下車,徒歩1分)
本龍寺 安城市和泉町中本郷 (JR東海道線安城駅あんくるバス南部線和泉丈山苑下車,徒歩10分)
明治川神社 安城市東栄町柳原 (名鉄名古屋本線新安城駅あんくるバス北部線明治川神社下車,徒歩1分)
            
<業績>
  碧海(へきかい)地域のうち明治村・依佐美(よさみ)村などの地域は台地であり,農耕をするためにはため池の水に頼るほかない枯れた土地であった。明治村の酒屋に生まれた弥厚はその現状をとらえ,台地上に用水を通すことを考えた。地域住民からの強い反発を受け,測量をするに当たっては夜中に密かに行わねばならぬような状況であった。それでも算術家の石川喜平(きへい)らの手助けを借りてなんとか測量を終えることができた。その後,数度にわたって,幕府に嘆願にいったが,夢かなう前に亡くなった。私財のすべてを投げうち,多額の借金だけが残った。その後,その意志を碧南の岡本兵松(ひょうまつ),挙母の伊豫田与八郎(いよだよはちろう)が受け継ぎ,見事に明治用水は完成した。後に「日本デンマーク」とうたわれた安城の発展はここから始まったのである。
<年譜>
1765年(明和2) 和泉村に生まれる
1808年(文化5) 用水開削計画を始める
1812年(文化9) 弥厚が根崎代官所の代官となる
1826年(文政9) 明治用水開削計画の測量が完成
1827年(文政10) 都築弥厚「三河國碧海郡新開一件願書」を幕府勘定奉行に提出
1833年(天保4) 幕府は都築弥厚の新開計画を許可。69歳で没

<学習のポイント>
  明治用水ができたことによって碧海台地がどのように変わっていっただろうか。
<見学のポイント>
  本龍寺には,都築弥厚の墓がある。
  明治川神社には,都築弥厚・岡本兵松・伊豫田与八郎らが祭神としてまつられている。
  明治川神社北には,時の宰相松方正義の書による通水の記念碑がある。
<参考資料>
  「安城市史」安城市
  「愛知の歴史散歩」

<問い合わせ先>
  安城市歴史博物館 0566-77-6655

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