東三河の清流,豊川は,かつてたびたび洪水をおこし,水害で流域に住む人々を苦しめてきた。 その理由としては,川の長さが約77qと短いうえに2/3は山地で降水量が多く,上流の降水が3〜4時間で平地に達してしまうこと,下流域で川が蛇行し,U型部分が狭く最大流量の半分も疎水力がないことが考えられる。
洪水対策として江戸時代には
霞堤(鎧堤)がつくられたが,昭和になってからも10年,12年,19年と大洪水を記録しており,放水路建設が急務となった。
工事は,昭和18年度に本格的に着手されたが戦争の拡大によってほとんど進展せず,戦後28年度以降ようやく軌道にのった。そして1965年(昭和40)豊川の下流低地に住む人々の悲願であった放水路(豊川市行明町・柑子町から
豊橋市前芝町へ通じる全長6.6q)が完成した。洪水時,遊水池として水害の常習地帯となっていた当古・下条・大村地区などの人々は,永年の水害の苦しみから解放されることとなった。