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本文1
(岩波書店『日本古典文学大系 保元物語 平治物語 承久記』による)

  去年十二月廿九日、尾張国野間の内海、長田庄司忠宗が宿所へつかせ給ひ候ぬ。此忠宗は、御当家重代の奉公人なるうへ、鎌田兵衛が舅なれば、御頼(たのみ)あるもことはり也。「馬、物具などまいらせよ。急ぎとをらん」と仰られしを、「子共、郎等、引具して、御供に参り候べき」よしを申て、「旦(しばら)く御逗留有ッて、御休み候べし」とて、湯殿浄めて入(いれ)まいらせ候ぬ。鎌田をば舅が許へよびて、もてなすよしにて討ち候ぬ。其後、忠宗郎等七八人、湯殿へ参り、討まいらせ候しに、宵にうたれたるをば知召(しろしめ)さで、「鎌田はなきか」と、只一声、仰られて候しばかり。




本文2
(岩波書店『新日本古典文学大系 保元物語 平治物語』による)

 さるほどに、海上をへて、尾張國智多郡内海へぞ着給ふ。長田庄司忠致(ただむね)と申は、相傳の家人(けにん)なり、鎌田が為には舅、一方ならぬよしみにて、長田が宿所へ入給ふ。さま/\にもてなしまいらせけるほどに、是にて歳ををくり給ふ。やがて出べきよし宣(のたま)へば、長田申けるは、「三日の御祝過させ給ひてこそ御下(くだり)候はめ」と申ければ、さてはとて御とうりうあり。長田が子息先生景致(せんじやうかげむね)をちかくよびて、「さて此殿をば東國へくだすべきか、是にてうつべきか、いかゞせんずる」といへば、景致申けるは、「東國へ下ておはするとも、よも人下(くだ)しつけ候はじ。人の高名にせんよりも、こゝにてうつて、平家の見参(げんざん)に入、義朝の所領一所ものこさず給か、しからずは當國をなりとも給て候はゝ、子孫繁昌にてこそ候はむずれ。」といひければ、「さて何としてうつべき」「御行水候へとて湯屋へすかし入れて、橘七五郎は美濃・尾張に聞えたる大ぢからなれば、くみてにて候べし。弥七兵衛・濱田三郎はさしてにて候べし。鎌田をばちかくよびよせて、酒をのみて軍(いくさ)のやうをとはせ給はんほどに、頭殿(かうのとの)うたれ給ひぬときゝ、はしりいでんところを、妻戸のかげにて景致まちうけてうちとゞめ候はむ。平賀四郎を亭(でい)にてもてなさむほどに、義朝うたれぬときゝて、おちばおとし候べし。たゝかはばきりとゞめ候べし。玄光法師と金王丸とをば遠侍にて若者共中にとり籠、引張さしころし候はんずるに何事か候べき」とぞ申ける。さてはとて三日の日湯をわかさせ、長田御前にまいり、「都の合戦と申、道すがら御くるしさ、左こそ御座(おはしまし)候らめ」とて、「御行水候へ」と申ければ、「神妙(しんべう)に申たり。」とて、やがて湯屋へいり給ふ。鎌田をば長田が前に呼寄て、酒をすゝめ、平賀殿をば亭にてもてなし、玄光を外侍にて酒をすゝむ。橘七五郎・弥七兵衛・濱田三郎うかゞひたてまつりけれども、金王丸太刀帯(はい)て御あかに参りたれば、すべきひまこそなかりけれ。やゝありて、「御かたびらまいらせよ。人は候はぬか」といへば、用意したる事なれば返事もせず。金王、「なに人はなきぞ」とて、湯殿のほかへ出ければ、三人のものはしりちがひてつといり、義朝の裸にておはしけるを、橘七五郎むずといだく。弥七兵衛・濱田三郎、左右によりて、わきのしたを二刀づゝつく。義朝、「正清は候はぬか。金王丸はなきか。義朝たゝ今うたるゝぞ」是を最後の御ことばにて、平治二年正月三日御とし卅八にてうせ給ふ。




本文1 現代語訳

 去年の十二月二十九日、尾張国野間の内海、長田庄司忠宗の屋敷にご到着なさいました。同行している忠宗は、源氏代々の家臣であるうえ、鎌田兵衛の舅なのであてにされるのも当然であります。「馬、武具を義朝殿に差し上げよ。急いで通ろうぞ」と仰ったところ、「息子たちや家来を引き連れて御供に参上しましょう」ということを申し上げ、「しばらく御逗留なさってお休み下さいませ」とふろ場を清めて、お入れ申し上げました。鎌田を舅の長田の所へ呼んで、もてなすふりで討ったのでございます。その後忠宗の家来七、八人がふろ場に参上し、討ち申し上げたのでございますが、鎌田が宵に討たれてしまっていたのを御存知なく、「鎌田はいないか」とただ一声仰っただけでございます。

本文2 現代語訳

 そのうちに、海上を通って尾張国知多郡内海へお着きになる。長田庄司忠致という者は源氏に代々仕えてきた家来である。同行している鎌田にとっては舅であり、並々ではないよしみによって、長田の屋敷へお入りになる。いろいろとおもてなし申し上げているうちに、そこで年をお越しになる。間もなく旅立とうとおっしゃったところ、長田が申すに、「正月三日のお祝いを終えなさってから、お下りになるのがよろしいでしょう」と申したので、それではということで、御逗留なさる。長田忠致は子息の景致を近く呼んで、「さて、この殿を東国へ下らすべきか、ここで討つべきか、どうするか」と言うと、景致が申したのは、「御一行が東国へお下りになろうとも、決して世間の人が無事に下し着けさせるようなことはございますまい。他人の手柄にさせるよりも、ここで討ち取って平家のお目にかけ、義朝の領地を一つも残らず頂戴するか、そうでなければこの尾張の国なりとも頂きましたなら、子孫は繁栄しますでしょう」と言ったので、「それではどうやって討ち取ったらよいだろうか」と聞くと、「体をお流しくださいと言ってふろ場へだまし入れて、橘七五郎は美濃・尾張に聞こえた大力の者なので組み付くのによいでしょう。弥七兵衛と濱田三郎は刺し手役によいでしょう。鎌田を身近なところに呼び寄せて、酒を飲ませて合戦の様子をお聞きになっているうちに、頭殿(=義朝)がお討たれになったと聞いて鎌田が走り出るところを、妻戸の陰で、この景致が待ち受けて討ち取ってしまいましょう。平賀四郎は客間でもてなしているうちに、義朝が討たれたと聞いて、逃げ落ちるなら逃すがよいでしょう。戦うならば切り捨てましょう。源光法師と金王丸とは、武士の詰所で若者どもの中に取り込めて、身動き取らせず刺し殺しましょうに、何ほどのことがございましょう」と申した。それではということで、正月三日の日、ふろを沸かさせ、長田忠致は義朝の御前に参上して、「都での合戦といい、道中での御苦労といい、さぞかし大変でございましたでしょう」と言って、「汗をお流しください」と申し上げたので、義朝は「よくぞ申した」と言い、そのままふろ場へお入りになる。鎌田には長田の前に呼び寄せて酒をすすめ、平賀殿は客間でもてなし、源光には武士の詰所で酒をすすめる。橘七五郎・弥七兵衛・濱田三郎がふろ場の様子をうかがうが、金王丸が太刀を腰につけてお垢流しに参っているので、襲う機会がなかった。しばらくして、金王丸が「かたびらを差し上げよ。誰か人はいませんのか」と言うと、皆、前もって計画していたことなので返事もしない。金王丸が「どうして人がいないのか」と言ってふろ場の外へ出たところ、三人の者が走り違うようにしてさっと中に入り、義朝が裸でいらっしゃたのを、橘七五郎がむんずと抱きつく。弥七兵衛・濱田三郎が義朝の左右に寄って、脇の下を二度ずつ刀で突く。義朝は、「正清はござらぬか、金王丸はいないか。義朝が、今、討たれるぞ」と、これを最後のお言葉に、平治二年正月三日、御年三十八歳でお亡くなりになった。

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