村松 愛蔵(むらまつあいぞう) −自由民権運動の指導者−  <時代> 明治時代  <地域> 東三河
村松愛蔵

<関係地>  城宝寺(村松愛蔵の墓)(豊橋鉄道渥美線三河田原駅下車徒歩3分)
<業績>
 村松愛蔵は田原藩の家老の家に生まれ,藩校成章館(せいしょうかん)や豊橋の穂積清軒(ほづみせいけん)主宰(しゅさい)の洋学校好問社(こうもんしゃ) で儒学(じゅがく)・英語などを学んだ。16歳で上京した後,東京外国語学校(現東京外国語大学)ロシア語学科に編入する。彼はそのころ 盛んになりつつあった自由民権運動に関心をもち,田原に帰郷後,同士を集めて恒心社(こうしんしゃ)という政治結社をつくり, 国会開設の運動を盛り上げた。また,25歳の時に新聞に発表した「日本憲法草案」(にほんけんぽうそうあん)は,一院制の国会,国民の権利を無制約的に保障し,税額を問わず国税納付者・婦人戸主・満18歳以上の男子の選挙権を認めるなど,当時としては非常に斬新なものであった。しかし,長野県飯田の自由党員たちと挙兵暴動計画(きょへいぼうどうけいかく)に加わり,事前に発覚したため処罰され,服役した(飯田事件)。
 その後,憲法発布(けんぽうはっぷ)の大赦(たいしゃ)により釈放された後は,大同団結運動(だいどうだんけつうんどう),立憲自由党(りっけんじゆうとう))に加わった。そして,1898年(明治31)に衆議院議員に初当選後,1909年(明治42)に政界を去るまで,立憲政友会(りっけんせいゆうかい)に所属して政界で活躍した。晩年は 宗教人として生涯を終えた。

<年譜>
1857年(安政4) 田原藩の家老職の家に生まれる
1873年(明治6) 東京外国語学校編入
1881年(明治14)新聞に『日本憲法草案』を発表
1884年(明治17)飯田事件で処罰
1889年(明治22)大日本帝国憲法発布の大赦で出獄
1909年(明治42)日糖疑獄事件(にっとうぎごくじけん)で政界を去る
1939年(昭和14) 83歳で没

<学習のポイント>
 東三河における自由民権運動について調べ,村松愛蔵が果たした役割などを考えてみよう。また,自由民権運動が挫折していく一例として飯田事件について調べてみるとよい。

<見学のポイント>
 田原城宝寺渡辺崋山の墓の近くに,村松家代々の墓がある。
<参考資料>
「田原町史」 「図説東三河の歴史」

<問い合わせ先・ホームページ>
 田原市教育委員会文化財課  0531-23-3635
 田原市博物館 0531-22-1720 http://www.taharamuseum.gr.jp/

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