藩校成章館 (はんこうせいしょうかん) <時代>江戸時代 <地域>東三河
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藩校成章館跡(石碑) |
田原市民俗資料館 |
<所在地>田原市田原町殿町(田原中部小学校正門横) (豊橋鉄道渥美線三河田原駅下車,徒歩15分)
<概要>
田原藩校成章館は1810年(文化7),藩医の萱生玄淳(玄順)(かようげんじゅん)の献策によって創設された。当時の藩主は三宅康和(みやけやすかず)である。場所は田原城桜御門前の広場,現在は田原中部小学校の東半分にあたる。創設のきっかけは1803年(享和3),伊能忠敬(いのうただたか)率いる幕府の測量隊がこの地を訪れたことにある。その測量技術から学問の重要性をさとった玄淳(玄順)が藩に働き掛けたからともいわれる。
初めは「稽古所」「学館」と呼ばれ,1811年(文化8)の田原藩日記の記事に初めて「成章館」という呼称が出ている。成章とは,論語公冶長篇(ろんごこうやちょうへん)の「狂簡斐然成章」(きょうかんひぜんせいしょう)より二字を冠する。孔子が人の道を天下に伝えようと諸国を周遊した際に,どこでも目先の利に心をとられ孔子の言を用いないことを嘆き,「在郷の門人らは志高く,文は美しく,道を伝える器である。彼らを育て後世に道を伝えよう」といったと伝えられる言葉に由来する。当時の藩の規模からみてかなりの力の入れようで,実際,すぐれた人材を多く輩出した。1832年(天保3)に家老となった渡辺崋山も,藩政再建の中で教化(藩内秩序の再建)と養才(有能な行政官僚養成)を重視し,成章館に大きな期待をかけていたとされる。
1871年(明治4)の廃藩置県により当時の藩知事三宅康保(みやけやすもち,後やすよし)が罷免になり,廃校となった。1901年(明治34)に再興され,町立・郡立・県立と移管されて戦後,県立成章高等学校となった。現在は跡地に碑が立つ。
<学習のポイント>
江戸時代の教育制度や藩校の身近な事例である。東三河では他に吉田藩の「時習館」がよく知られるところである。文治政治の広がりとともに江戸後期の藩政において優秀な人材育成が重視されていた状況をとらえよう。また,校名にこめられた意味も考えてみよう。
<見学のポイント>
成章館が建てられていた付近に現在は,田原市民俗資料館が建つ。農具や生活用具などが数多く展示されている。また,田原城跡が,通りを隔ててすぐである。
<参考資料>
「東三河の歴史」「愛知県の歴史散歩」「図説東三河の歴史」「愛知県の教育史」 「田原町史」
<問い合わせ>
田原市博物館・田原市民俗資料館 0531-22-1720
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