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(岩波書店 『新日本古典文学大系 保元物語 平治物語』による)
さるほどに、海上をへて、尾張國智多郡内海へぞ着給ふ。長田庄司忠致(おさだしやうじただむね)と申は、相傳(さうでん)の家人(けにん)なり、鎌田が為には舅(しうと)、一方ならぬよしみにて、長田が宿所へ入給ふ。さまざまにもてなしまいらせけるほどに、是にて歳ををくり給ふ。やがて出べきよし宣(のたま)へば、長田申けるは、「三日の御祝過させ給ひてこそ御下(くだり)候はめ。」と申ければ、さてはとて御とうりうあり。長田が子息先生景致(せんじやうかげむね)をちかくよびて、「さて此殿をば東國へくだすべきか、是にてうつべきか、いかゞせんずる。」といへば、景致申けるは、「東國へ下ておはするとも、よも人下(くだ)しつけ候はじ。人の高名にせんよりも、こゝにてうつて、平家の見参(げんざん)に入、義朝の所領一所ものこさず給か、しからずは當國をなりとも給て候はゝ、子孫繁昌にてこそ候はむずれ。」といひければ、「さて何としてうつべき。」「御行水(ぎやうずい)候へとて湯屋へすかし入れて、橘七五郎は美濃・尾張に聞えたる大ぢからなれば、くみてにて候べし。弥七兵衛・濱田三郎はさしてにて候べし。鎌田をばちかくよびよせて、酒をのみて軍(いくさ)のやうをとはせ給はんほどに、頭殿(かうのとの)うたれ給ひぬときゝ、はしりいでんところを、妻戸のかげにて景致まちうけてうちとゞめ候はむ。平賀四郎を亭(でい)にてもてなさむほどに、義朝うたれぬときゝて、おちばおとし候べし。たゝかはばきりとゞめ候べし。玄光法師と金王丸とをば遠侍(とをさぶらひ)にて若者共中にとり籠、引張さしころし候はんずるに何事か候べき。」とぞ申ける。さてはとて,三日の日湯をわかさせ、長田御前にまいり、「都の合戦と申、道すがら御くるしさ、左こそ御座(おはしまし)候らめ。」とて、「御行水候へ。」と申ければ、「神妙(しんべう)に申たり。」とて、やがて湯屋へいり給ふ。鎌田をば長田が前に呼寄て、酒をすゝめ、平賀殿をば亭にてもてなし、玄光を外侍にて酒をすゝむ。橘七五郎・弥七兵衛・濱田三郎うかゞひたてまつりけれども、金王丸太刀帯(はい)て御あかに参りたれば、すべきひまこそなかりけれ。やゝありて、「御かたびらまいらせよ。人は候はぬか。」といへば、用意したる事なれば返事もせず。金王、「なに人はなきぞ。」とて、湯殿のほかへ出ければ、三人のものはしりちがひてつといり、義朝の裸にておはしけるを、橘七五郎むずといだく。弥七兵衛・濱田三郎、左右によりて、わきのしたを二刀づゝつく。義朝、「正清は候はぬか。金王丸はなきか。義朝たゝ今うたるゝぞ。」是を最後の御ことばにて、平治二年正月三日御とし卅八にてうせ給ふ。金王丸此由をみて、「にくひ
異國の安禄山は主君玄宗をかたぶけ、養母楊貴妃をころし、天下をうばひとりしかども、其子安慶緒にころされ、安慶緒は又ちゝをころしたるによつて、史明師にころされて、ほどなく禄山が跡絶ぬ。我朝の義朝は、保元の合戰に、父の首を切(きり)、平治の今は長田がてにかゝつてうたれぬ。忠致相傳の主を討ぬれば、「行末いかゞあらんずらんとおそろしおそろし。」とぞ人申ける。