大高城跡(おおだかじょうあと) <時代>戦国時代 <地域>名古屋
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大高城跡碑 |
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本丸跡 |
<関係地> 名古屋市緑区大高町城山(JR東海道本線大高駅下車徒歩10分)
<概要>
永正年間(1504〜21)頃に花井備中守(びっちゅうのかみ)という者が居城し,天文・弘治(1532〜57)の頃には水野忠氏の居城となっていた。水野氏は初め今川方に属していたが,のち織田氏に従ったことから,1559年(永禄2)に今川方の鳴海城主山口左馬介(さまのすけ)によって攻め落とされた。駿河の今川義元は、上洛への道筋をつけるべく尾張に打ち込んだ三本のくさびである沓掛城・大高城・鳴海城のうち,大高城を最も重視し,妹婿の鵜殿長照(うどのながてる)を守将として入れ,織田方に備えた。これに対抗して織田信長は,東方に鷲津砦・丸根砦を築き,見張りを厳しくして大高城の糧道を断とうとした。このため,大高城は食糧難におちいった。駿府ではこの窮状を救おうと食糧を運び込もうとしたが,敵中突破の危険な仕事を誰も引き受けようとしない。そこで岡崎の松平家から人質に入っていた松平元康(のちの徳川家康)に白羽の矢が当たった。元康はこの困難な仕事を見事に果たし,小荷駄千二百疋を運び込んだという。これが有名な大高城兵糧入れである。こうして上洛の道筋をつけた今川義元は翌1560年5月1日,いよいよ上洛の途についた。そして桶狭間の戦いとなるのである。5月18日,義元は沓掛城に入って軍議を開き,松平元康は丸根砦の攻撃を命じられた。翌日,丸根砦を攻略した元康が戦勝を報告すると,喜んだ義元は元康の労をねぎらい,大高城に入って兵馬を休めるように命じた。これが元康の運命を変えるのである。その直後に,義元が桶狭間で横死したとの報が大高城に入った。元康はそれが確実だと知ると,早々に岡崎に引き揚げた。そして今川氏の人質の身分から脱し,岡崎城主として独立するのである。大高城はこの時廃城となった。
<学習のポイント>
家康が初めて武名を挙げ,また家康開運の城ともなった大高城を端緒にして,徳川家康の天下統一事業を学習してみよう。
<見学のポイント>
大高城跡は現在,大高城公園になっている。小高い丘の上にある祠のまつられている本丸跡から東方を望むと,並列して走る東海道本線と新幹線をへだてて鷲津・丸根砦跡を望むことができる。
<参考資料>
「愛知県の歴史散歩」「日本城郭辞典」
<問い合わせ先>
名古屋市緑区役所 052-621-2111
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