本多忠高碑(ほんだただたかひ)  <時代>戦国時代  <地域>西三河
本多忠高碑(安祥城址 大乗寺) 大乗寺

<所在地>大乗寺(だいじょうじ) 安城市安城町赤塚 (名鉄西尾線南安城駅下車,あんくるバス市街地線乗り換え,東尾下車徒歩3分)
<概要>
  安祥城祉にある大乗寺北の墓地内にある。岡崎城主松平広忠(ひろただ)が死亡したため,今川義元(よしもと)は1549年(天文18)3月,太原雪斎(たいげんせっさい)に二万の大群を率いさせ,安祥城を攻撃した。この第四次安城合戦の先ぽうとなった松平軍の主将本多忠高は,城外から城将織田信広(のぶひろ)を本丸近くまで追い迫ったが,この地で戦死した。その場所に1799年(寛政11)岡崎藩主本多忠典(ただのり)が墓碑を建てた。林大学(はやしだいがく)の撰文である。
<学習のポイント>
  松平氏が,織田氏と今川氏の間に入り奮戦し,その後に天下統一を果たす徳川家康との関連で触れていきたい。特に安祥城は,数度の戦が行われた所で,その歴史的な重要性も高い。
<見学のポイント>
  現在は,了雲院大乗寺という寺院になっているが,安祥城が平山城(ひらやまじろ)としてどのような姿をしていたかという立地条件をみてとることができる。また,近くには本多忠高の父,本多忠豊(ほんだただとよ)の碑もある。
<参考資料>
  「安城市史」 「安城市文化財図録」
<問い合わせ先>
  安城市教育委員会生涯学習部文化財課 0566-77-4477

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