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鹿島神社文学苑

 蟹江町は濃尾平野の南、伊勢湾沿岸部に位置し、戦後しばらくまで水田の広がるのどかな農村であった。加えて蟹江町は海抜ゼロメートル地帯であって、河川や水路の多い水郷の地でもあり、極めて素朴かつ情趣豊かな風景を見いだすことができた。実際、昭和17年(1942)から昭和18年(1943)にかけて幾度となく蟹江町を訪れた作家の吉川英治は、この地を「東海の潮来(いたこ)」と称して愛でている。
 当時の蟹江町を知る人によれば、大木、古木がそこかしこにあり、川原にはアシやマコモ、ガマやススキが群生し、水中にはタニシやドジョウ、ナマズなどが見られた。水辺ではカイツブリやヨシキリ、クイナ、またカワセミやセキレイといった野鳥が遊んでいた。大小河川に架かる橋のほとんどは木製で、家は草屋根が普通であり、人々は足踏み水車で苗代に灌漑(かんがい)し、二毛作が行われた。春には菜の花畑やレンゲ田が見渡す限り広がって、左義長や七夕、秋の村祭りなどの行事が盛んに行われていたと言う。
 けれどもこうした風景は、戦後の急速な近代化や昭和34年(1959)の伊勢湾台風による大水害のために、みるみる失われていった。このような折り、蟹江町出身で、ねんげ句会(※注1)同人の黒川巳喜が、消えゆく風情を何とか後生に伝えたいという思いと、蟹江町に文化的遺産を残したいという思いから、私財を投じ、昭和43年(1968)から18年をかけて、著名な俳人やこの地方の文化人の詠んだ俳句を句碑にして鹿島神社の敷地内に建設したものが、鹿島神社文学苑である。
 この鹿島神社文学苑の句碑には、「ホトトギス」の四S(よんえす※注2)のような著名な俳人の名も見られ、その句は古き良き蟹江の風景を彷彿(ほうふつ)とさせる。現在、計26基の句碑が残されている。

※注1・・・「ねんげ句会」は、小酒井不木が創立した俳句の会である。「ねんげ」は拈華微笑(ねんげみしょう)から由来している。
※注2・・・「四S(よんえす)」とは、昭和初期に句誌「ホトトギス」で活躍した水原秋桜子、高野素十、阿波野青畝、山口誓子を指した言葉である。

鹿島神社文学苑の入り口 鹿島神社文学苑の碑
鹿島神社文学苑の入り口 鹿島神社文学苑の碑

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